日々の暮しから (My daily life)

横浜の自宅では両手を伸ばせばなんでも取れるようなちっぽけな部屋で仕事をしている。そ
んな小さな部屋ではあるけれども,身の回りが本で囲まれた中で過すことはやはり楽しい。
疲れたら椅子にもたれて眠ってしまうこともある。そんな状態であれこれと勝手なことを考
えて日誌をつけている。

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カバーページから(2018/08/19)
猛暑というか酷暑というのか,大変に暑い夏であったし,台風などによる自然災害も多くて
かなり辛い時期を過ごさねばならなかった。身体的にも精神的にも厳しくて,サイトの更新
を行うこともなくて時が流れてしまった。その間にはいくつかのことが起きたのだけれども
何もできずに終わってしまったというのが本当のところである。これではまずいなあと思っ
ていたら少し気持ちが落ち着いてきたのでゆっくりと自分の周辺の整理を行いながらページ
を更新していきます。(2018.08・19)

■カバーページから(2017/10/29)
10月も末になってしまいました。春先からあまり体調がよくなくて,身体がだるいとか,腰
が痛いとか嘆いていたけれども,医者にぼやいても「歳のせいでしょうし,この季節にはみ
んなだるいものなのです」とか言って取り合ってくれない。しょうがないのでなんとか夏を
乗り切ったら,寒くなってから多少は楽になってきた。しょうがないので,ぼやいてばかり
いないでもうちょっと頑張るしかないなあ。

■カバーページから(2017/10/29)
 2017年も2月になってしまい,かなり寒い日々が続いている。このサイトも古めかしい形式であ
るとか,なんとも素朴ですねえとかからかわれたりする。でも,元々のソフトを制作していた会社
が消えてなくなってしまったのでうまく更新ができない。しょうがないから,当面はこのままで使
い続けるしかないなあ。でも,時々は「見ていますよ」と言われると,不十分ながらこれでやって
いくしかない。勘弁してください。私もいささか歳をとりました。それでもまだ頑張っているつも
りなのですが,もう少し成果を挙げていかなければいけません。周辺の皆さんに支えられて,まだ
なんとか,研究開発や社会活動に関わりながら,興味と関心の赴くままに日々を過していくことが
できるのは幸いです。ゆっくりではあるけれども,日々の様子だとか,あれこれと考えることごと
を,自分のためのメモ代わりという意味も含めて記しています。はやく三月にならないかなあ,暖
かい春になればいいのになあと思っています。

■カバーページから(2017/02/04)
いつの間にか2016年も終わりに近づいてしまいました。なんだか大変にせわしい1年で,このペー
ジもまったく更新ができませんでした。いろいろなことがありましたし,私もいささか歳をとり
ました。それでもまだ頑張っているつもりなのですが,もう少し成果を挙げていかなければなり
ません。年末までにはもうちょっとこのページの内容も整えていきます。でもいつものことなが
ら,周辺の皆さんに支えられて,まだなんとか研究開発や社会活動に関わりながら,興味と関心
の赴くままに日々を過ごすことができるのは幸いです。ゆっくりではあるけれども日々の様子や
あれこれと考えることごとなどを,メモ代わりという意味も含めて記してみます。はやく暖かい
春にならないかなあと待ち望んでおります。

■蘇鉄の花が咲きました(2016/7)
一体いつ買ったのだろうか?農工大にいた頃からあったのだから,すくなくとも2003年には既にあって,研究室
の近くの渡り廊下には置いてあった。それを横浜に引っ越したときに持ってきて,一株は事務所の玄関近くに置い
た。それが次第に成長しておおきくなり,近隣の皆さんの目にとまるようになってきた。「素晴らしいですね」とか
「何年かかってここまで大きくなったのですか」などといわれるようになった。昨年は娘のところに移した別の株に
花が咲いた。そして今年は私のところの蘇鉄にも花が咲いた。みんなが珍しがってくれた。多分20年は経ってい
るであろう。やはり珍しいようだ。

             

■カバーページから(2016/12/18)
2016年となりました。昨年はいろいろと考えさせられる一年でした。自分ではとくに年齢を意識す
るということはないのですが,やはり過去を回想することが多くなっています。でも周辺の皆さん
に支えられて,まだ少しではあるけれども,研究開発や社会活動に関わりながら,興味と関心の赴
くままに日々を過ごすことができるのは幸いです。ゆっくりではあるけれども日々の様子やあれこ
れと考えることごとなどを,メモ代わりという意味も含めて記してみます。はやく暖かい春になら
ないかなあと待ち望んでおります。

■カバーページから(2015/01/15)
2015年となりました。このWebsite のことは大変に気になっていましたが,どうにも更新できませ
んでした。精神的にもっとも負担となっていたのはHandbook or Optical Metrology
(CRC Press, Taylor & Francis, 2009)の改訂作業でした。当初は順調に進んだので,これははやめ
に仕上がるかと油断したのがいけなかったのでしょうか,すっかりペースが落ちてしまって,昨年
一年間はストレスとなって心にのしかかかっていました。それでも共著の皆様のご協力のおかげで
年末にはほぼ目安がついて,年が明けてからようやく私の手を離れることとなりました。有難うござ
いました。このところ草花の手入れも怠ってきたので,寒くなってから慌ててパンジーを買ってき
て植えましたが,残念ながらまだまだ写真を載せられる
ほどには成長していません。はやく暖かい春にならないかなあと待ち望んでおります。

■この頃の心境(2015/01/28)
昨年後半はハンドブックの改訂作業があって精神的に大変な負担になっていた。その上にビジネスでもうまくいかな
いことが多くて,ストレスにさいなまれた毎日であった。そのためもあってか頻繁に夢でうなされた。それも必ず道に
迷うのである。それがドイツの街で道に迷って帰れなくなったり,中国でもそうであったりとひどい悪夢なのである。時
には日本であっても,どうやったら,何線に乗ってどうやって帰ればいいのかが解らなくなったりしてしまう。精神分析
でも受けなければいけないのかなあ。どこか解らない国の場合もあって非常に辛かった。最近はこうしたこともかなり
減ってきてかなり楽になってきたので,これからは落ち着いて少しずつ身辺を片付けていきたい。昨年11月には長い
間気になっていた知人の消息が偶然にも十数年ぶりに解って非常に嬉しかった。メイルアドレスも何とか捜せたので,
本人かなあと思いながら送ったメイルへの返事は"You found me!"であった。さらにはこれも気になっていた従弟と
連絡が取れてほっとした。私の家系はちょっと複雑な事情があって,この従弟も日系の3世であり,現在カリフォルニア
で事業をしているようだ。そんな状態だから,かなり多数いるはずの私の親戚縁者はもう日本語を解さなくなってい
て,非常に複雑な気持ちがする。日本では,一昨年に従兄が逝ってしまったので,吉澤の家系ではどうやら私が最年
長になっているらしい。ルーツ探しもいろいろな面があって,さて,いいのか悪いのか,いささか微妙な面があること
が判ってきた。それでも祖父・次郎が1879年11月5日生まれであることやシベリア丸の乗船者名簿に名前が残って
いることが判ったりする。米国にはいろいろな資料が残されているものだと,なんとも複雑な思いがする。

■カバーページ(2014/07/16)から
ようやく落ち着いてきたので少しずつ更新します。事務所の内外も片付けつつあります
更新せねばと思っていたものの,気がついたら1年間以上もWebsite に手を加えていなかった。「そ
れでもいいのですよ」と言ってくださる方もおられるが,どうにも怠惰を象徴するようで恥ずかし
い。昨年は内面形状測定装置を中心に,ビジネスの世界にも足を踏み込んではみたものの,そのあ
まりの厳しさと非情さ,さらには卑劣さにはすっかりと参り果ててしまった。ストレスがたまって
しまい精神的にひどくまいりはしたものの,なんとか生き延びて暖かい季節を迎えることができ
た。(2014/06/16)
  z

              
 
  大好きなジギタリスが咲きました    蘇鉄の鉢にネジバナが咲きました

■事務所の整理を始める(2014/06/26)
 埼玉医科大学を退職してからは事務所を拠点として仕事をしている。「何もしないでのんびりし
ていればいいのに」と家族には言われるけれども,貧乏症なのかなあ,それとも働き蜂なのかな
あ,いやきっとほかに何もすることがないからなのであろう。でも事務所の中はいまだに開けても
いない段ボールが山積みである。中には何が入っているのか判らないままである。さすがに耐え切
れなくなってしまって,6月からしばらくの間,弘美さんに来てもらって片付けと整備をすることと
した。電気電子やコンピュータの知識を持っている方なのでまずはネット環境を整えてもらった。
これで事務所と自宅でのPC環境は整ったので,つぎは外出時での体制を整備せねばならない。WiFi
だのスマートフォンなどとややこしいし,経費もかさむ。でもネットの存在は本当に有難い。これま
でに何とか整備せねばならないと考えてきた三大目標を達成にチャレンジすることにした。第一は
大きな実体格子型モアレ装置の移動である。廃棄してしまえばそれきりであるが,思い出もあるし
たまには来客に見てもらったりするし,ここから三次元形状計測の話に入ることが私にはもっとも
やりやすい。入り口に置いたきりであったけれども,弘美さんの机を近くに置いたので邪魔にな
る。そこで私一人で頑張ってなんとか奥に移動した。やはり捨てきれない。ついではホワイトボー
ドの設置である。私自身は字が汚くて他人には読めない状態であるところから黒板や白板は殆ど利
用しないけれども,中にはボード大好きな方もおられるので,ないと不便である。これも大学で廃
棄したものを持ってきていたので取り付けようと考えたが,どこにどうやって設置するべきか,い
いアイデアがなかった。漸くのこと書棚の全面に引っ掛けて吊るすこととした。といっても一人で
は持ち上げることがやっとであるから,苦労を強いられた。う〜ん,大変な苦労だったなあ。これ
が終ると次はプロジェクタ用のスクリーンの設置である。実はしばらく以前に購入したのだけれど
も,横幅が1800ほどのスクリーンでもこれほどに重いとは考えもしなかった。一人で持ち上げるこ
とはできるものの,持ち上げておいて窓枠に固定する作業は一人ではとても無理である。これには
参り果てた。へたしたら落下しそうである。島忠に行って保持部品や留めネジなどを買ってきたの
はいいものの,どうにも作業に取り掛かる気にならなかった。それでも弘美さん効果で,なんとか
室内を整備しようという気になって土曜日の夕方から取り付け位置を考え,取り付け枠をこしらえ
た。そして日曜日の朝から枠板を削り,小雨の合間を縫ってペインも施した。そして覚悟を決めて
そろそろと取り付けを開始した。ところが,やってみたら,幸いにもいくつかのうまい手順を思い
ついて予想外にはやく格好が付いたのである。しかも枠板などは不要であった。従ってペイントす
る必要もなかったのである。ほっとすると同時にいささか無駄をしたことが口惜しかった。それで
もなんとかできたのだ!事務所整備の三大目標が達成されたのだ。これからは書籍と文献の整理に
専念できるのだから嬉しくなってしまった。私の老後に備えて,人生は楽しいのである。

■カバーページの言葉(2013/05)より
 春の気配が漂いはじめたと思ったら,はやくも夏になりつつある。大学生活から離れて一年が過
ぎてしまった。講義だとか学内会議だとかからはすっかり離れました。「ストレスがなくなってよ
かったですね」などと言ってくださる方もおられるが,私にはまだ俗気が残っているのかなあ,仕
事からは離れることができずにいます。NPOでの仕事に力を注ぎながらも,もっと個人生活を楽しみ
たいなあと思っています。現在最大の問題はいまだに事務所の中が片付かないことです。資料など
が積み重なったままで,これでは生活を楽しむとか優雅に趣味に生きるなどということはまだまだ
夢の彼方です。でも周辺の皆さんに助けられながら,まだ現役として,研究の前線に留まっていま
す。(2013/05/26)
■文房具:ボールペン1(2013/05/25)
 恥ずかしいことには,私は大変な悪筆である。自分で書いた字でさえ読めなくなる。でも筆記具は大好きである。
実は,ここ数年気になっていたボールペンにモンブランの,断面が三角形をしたボールペンがある。とても格好がよ
い。本当を言うと買ったのではなくて,記念品としていただいたものである。とても格好がいいので使うのはもったい
ないし,だいいち失くすといけない。だから大事大事に飾っておいた。そのために気がついたらインクが固まって字が
書けなくなっていた。これには参った。どうやっても書けないのである。じゃあ,替芯を買ってくればいいじゃないかと
いうかもしれない。ところがこのボールぺンはどこにでもあるような黒い太い丸い軸のモンブランではなくて,金属製
のシルバーの軸で,しかも軸が三角形である。皆さんご存知のように,鉛筆が6角形であるのは机の上から転がって
落ちないようにしてあるからである。そう,赤鉛筆は丸い。それは,赤鉛筆はそれほどには多くは売れないので,わざ
と丸くしておいて机から転がり落ちやすくして折れ芯にしてしまうためである(私の推論である)。そんあことから,私
が大切にしている宝物モンブランは断面が三角形になっているのである。問題は換芯である。丸善かイトーヤに行け
ばあるかもしれないけれども,わざわざ行くのが面倒である。ならばと海外に行ったついでに買おうと考えた。ところ
が,それがないのである。去年もホノルルでモンブランの店を見つけたので訊いてみた。ところが,そんな三角形の
モンブランなんて見たこともないというのである。ところがである。いつだったかヨドバシに行ったときにふと文具売り
場を通ったら,なんとモンブランの買芯が並んでいるのである。びっくりした。それで三角モンブランを鉛筆ケースに入
れておいて,先週川崎のヨドバシに立ち寄った折にふと思い出して捜してみた。ところが慌てたことにはどうやって芯
を変えるのか外し方が解らない。これは困ったなあとあれこれと試していたら,怪しい客と思ったのだろうか,店員さ
んが「どうしました?」と言って近づいてきた。事情を言ったらあれこれとやってみて(私もこれしかないと思ったのだけ
れども)軸にある小さな穴にピンを差し込んで見事に芯を外してくれた。これで芯を交換することができた。素晴らし
い!3年間に及ぶ難題が解決した。その店員さんもほっとした顔であったが,「こんなモンブランは見たことがないで
す」と言っていた。一部に小さく例のモンブランのマークがあるだけで,よーく見ないとモンブランの文字が見えない。
帰ってからルーペで見るとちゃんとGermanyの文字もある。本当にほっとしたので,日記はこれからはこのペンで書く
こととした。写真を撮ったのだけれどバログラフの赤が映ってしまい軸が赤っぽく見えるなあ。

               
              芯の交換にやっと成功したモンプラン(上)と愛用するバログラフ(下)

■春になりパンジーが盛りです(2013/03/23)
 春の気配とともにかなり暖かくなってきました。大分以前にパンジーを買ってきて植えたのですが,冬に強いはずな
のにあまり元気がなくて心配でした。でも暖かくなってきたら,急に元気になって事務所の入り口で咲き誇っていま
す。パンジーにはいろいろは色があるのですが,私は黄色に決めています。なんとなく春に相応しいと感じているか
らです。もう花屋には売っていませんが,先日売れ残り?のビオラがあったので,いく鉢かを買ってきて家の玄関にも
吊るしてみました。ありきたりでは詰まらないので,これも私が好きなフクロウの置物と一緒に植えてみたのですが,
私は気に入っています。 

     

■アンズが咲きました(2013/03/15)
 ようやく春めいてきました。家の裏にある空き地にはアンズの木があります。サクラに先立って,毎年きれいな花が
咲いていましたが,3,4年前に太い枝が切られてしまいました。とても大きな木なので屋根にかかるとか,アンズの
実が落ちてうるさいとかいう人がいたのです。もったいなかったなあと思います。それ以後は木に勢いがなくなってし
まってあまり花が多くなくなりました。それでも今年も花が咲いてきれいです。蜜でも吸いに来るのでしょうか,メジロ
が何羽も来て,鳴きながら枝から枝へと飛び回っています。この辺りでは,別のところにある坂道の途中に,とてもき
れいな花が咲くサクラがあったのですが,これも昨年切られてしまって,現在はアパートが建っています。しょうがな
いのですけれども,なんだかとても寂しいです。

       
        アンズです。右の写真の真ん中上部にはメジロも写っているのですが,ちょっと見にくい。

■富山で楽しむ:妻とともに富山へ(2013/01/30-31)
  富山大学の田代先生がアレンジしてくださって,久しぶりに富山へと出かけてみた。富山県立大学からの野村先
生と神谷先生も私の講演に来てくださったので大変に嬉しかった。以前に伺ったのは5年くらい以前かなあと思って
いたら,「10年以上も前ですよ」と言われたので,「そんな前じゃあなくて,確か神谷先生がメルセデスに乗り換えたと
きで時でしたよ」と申したら,「あれは10年以上も昔のことです」と証言されてしまった。う〜ん,これでは反論のしよう
がないなあ。私も歳をとったのだなあと,あらためて感じた。皆さんのお世話になって楽しませていただきました。
実は妻が同行してくれたのだけれども,妻は田代先生の奥様の案内で,最近できたというガラス工房へ連れて行っ
ていただき,ガラスで文鎮を造ったりして楽しんだ。東京を離れると,その土地に相応しい食べ物が色々とあるけれd
も,最近の富山の名物は「ブラックラーメン」だという。それ以外にも,レッド,グリーンなどもあるらしい。帰りに空港で
買ってみたが,とてもおいしかったので,皆様にお勧めします。

      

          妻が造ってくれたガラス文鎮                 富山名物ブラックラーメン
      (失敗したという右のタレが逆に持ちやすい)           (帰途に空港で買ってきた)

■カバーページの言葉(2012/12)より
今年の3月に埼玉医科大学を退職して以来,少しずつ個人事務所の整理を行いながら今後
のNPO 三次元工学会での活動に備えています。事務所の周辺も花などを並べて,少し見栄 
えがよくなりました。三次元形状の測定や内面形状の測定を行うために開発している装置 
などを揃えて,デモ実験ができるようにもしていきます。もう少々頑張ろうと思っていま 
す。恒例の三次元工学シンポジウム(12月5〜6日)も終って一息ついています。

■カバーページの言葉(2012/05/19)より
今年の3月をもって埼玉医科大学を退職しました。結局三つの大学に勤務したことになりま 
す。その間,大学から離れて産業界に身を置いていた時期がありましたが,通算で40年は 
大学生活を送ったこととなります。近年では大学の制度もすっかりと変わり,いささか寂 
しい気もしますが,私なりに楽しく過ごすことができました。40年かかっての卒業という 
ことになるのでしょう。よいスタッフに恵まれて幸せでした。しばらくは個人事務所の整 
備を行いながら今後の方向を決めることとします。また研究成果などをまとめての「研究 
報告 Vol.7 (2010-2011)」もまとめることができました。もう少々頑張りますのでよろし 
くお願いいたします。

■カバーページの言葉(2012/01/22)より
 このサイトには長い間手を加えないでいるうちにいつの間にか年が新たまってしまいまし
た。実は昨年の11月末にパソコンが不具合になってしまって,まだ影響を受けています。で
もそんなことを口実にしている訳にはいきませんので,少しずつ書き加えていきます。今年
は私もさらに一つ年齢を重ねて,またまた人生の舵を切らなければなりません。覚悟を決め
て頑張りますのでよろしくお願いいたします。

■初詣に総持寺に行きました(2012/01/22)
 慌しかった一年が終わり,新しい年が始まりました。とくに11月末に愛用のコンピュータが不調になってし まって
現在の絶不調のままです。次のPCは手配してあるのですが,まだ到着しておらず,毎日不便しています。現在の生
麦に移ってきてから,もう10年近くになるのに,実は初詣には殆ど行ったことがないのです。10分少々も歩けば行け
るほどの近くに曹洞宗大本山であう総持寺があるのに情けないままです。でも昨年は能登まで行く機会があり,そこ
には元々の本山である総持寺がある。そのことも知っていたのに,能登でもお参りに行かなかった。今年は少しはゆ
っくり過ぎしたいので,三日になって娘らが来た折にぶらぶらと散歩を兼ねて初詣に出かけてみた。もう三が日も終る
ところだし,午後も遅かったのであまり人出ないだろうと思っていたのに,かなり多くの人々で賑わっている。総持寺
にはいくつもの建物(堂宇)があり,ゆっくりと歩いて巡れば結構な散歩コースになる。私たちは子供連れだったので
この日はぐらぶらと歩いてお正月の気分を味わった。そのうち一人でのんびりと散策を楽しみたい。

    
          境内にはこんな堂宇がいくつもある                  街から戻ってきた修行僧
 
■カバーページの言葉(2011/07/12)
  梅雨もようやく明けて夏の日差しが照りつけるようになりました。年齢とともに興味の対象が拡がりすぎてしまっ  
 て,これでは発散するままの人生になってしまうなあと反省しています。まとめるべきことが多いのですが,
 今年は ある意味で正念場かもしれません。長年気になっていた研究報告も浅野秘書の苦労のおかげ
 で4月に入ってからやっと刊行することができました。これで2001年から2009年までの論文や解説などが一冊に
 まとまりました。研究室に所属していた皆さんの成果です。まだまだ頑張りますのでよろしくお願いいたします。

■アンズが咲きました(2011/03/29)
  21日からシンガポールでの国際会議ICOOENに出かけた。そのころから裏にあるアンズの花が咲き始めたので,
 これは帰ってくるまであるかなあと思っていたが,心配することなくまだ花が残っていた。この木は一体誰が植えた
 のだろうか。2回を優に越える高さであるが,裏の空き地みたいなところにあるのであんまり気づかれていない。
 2,3年前に屋根にあたるからと枝をかなり切ってしまった人がいて,そのままに引っ越して行ってしまった。
 そのためか去年はいささか可愛そうな状態であったが,今年は少し回復した。でも以前にはとても及ばない。
 いつか取り木をして育ててみたい。

             

 このアンズがもっときれいに咲いていた頃には,「あれっ?もうサクラが満開だ!」と驚いていた人がいたけれども
 アンズはサクラよりも一足早く咲くのです。今日は荒れた裏の空き地をちょっとだけ手入れしました。

■家のまわりは(2009/04/21)
 裏の空き地は草が茫々であったので笹竹などを苦労して根から抜いてみた。そのせいか今年は山吹がきれいに咲
いている。八重であるのでとても見栄えがいい。私は黄色の花が好きである。だからパンジーも黄色のものが一番好
きで,いまが盛りである。これから6月の初旬まではきれいに咲いていてくれることを期待する。でも暖かくなると茎が
徒長してしまって,いささかだらしなくなる。しかし私にはなかなか抜くことができないなあ。
 
    

■さらばボストン
 SPIE Optics East はずっとボストンとその周辺で開催されてきた。Photonics Westほどには大きな会議ではなかっ
たけれども,街の雰囲気とともに私は大好きであった。ところが会議のメイントピックスが(Photonics Westの半導体
のようには) 鮮明ではなかったこと,また東海岸側のホテル代や会場費の高騰が著しいしいということから 2007年
限りで中止となってしまった。会議の運営の中心となっている人々の考え方が適切ではなかったようにも個人的に 
は思われる。私が関係する会議 "Two- and Three-Dimensional Methods for Inspection and Metrology" は来年
からはサンディエゴに移ろうということとなった。 ちょっと寂しかったので, あちこちと街の中を歩いてみたが,今年は
妻が一緒でなかったためもあってか,なおさら寂しかった。さらばボストン!                    
           
        ユニオンオイスターハウスの看板が懐かしいなあ。

疲れてしまい,のんびりと過ごす(2007/07/22)
 このところなんとなくせわしくてすっかり疲れてしまった。"Exhausted"という表現があることを思い出した。土曜日は
気分転換をかねて,参議院選挙の不在者投票に出かけた。選挙当日にどんな仕事が舞い込むか解らないから,さっ
さと義務を済ませたのだ。日曜の朝に外に出たら,夜半の雨が蜘蛛の巣を目立たせていた。蜘蛛の巣はこんなもの
であったのかと写真に撮ってみた。玄関周りの小さな花壇にも少し手を加えなければいけないなあ。

                     

新潟に出かける(2007/02/02)
 ひょんなことから新潟県工業技術総合研究所へ伺うことになった。今まで新潟には一回だけ行ったことがあるけれ
 ども,あの時はどこへ行ったのかなあ?ちょっと定かではない。往事茫茫というらしい。情けない記憶力だなあ。今
 回は某社の方とともに 三次元計測と視覚センサに関する講演をした。でも,どうも講演時間を間違えたらしく,1時
 間で終わりにしたら, ちょっと早く終わり過ぎたらしい。まずかったかなあ。雑談ならいくらでもできたのだけれど 
 も。講演は難しいなあ。でもいろいろな方にお会いできたし,貴重なお話も伺えたので,私にとっては大変に勉強に
 なった。雪はどうだったかって?途中の湯沢とか長岡は,車窓から見ると,大雪だったけれども,新潟に着いたら雪
 がない!今年はやはり暖冬だそうである。なんだかもの足りないなあ。新潟駅前はタクシーだらけでびっくりした。 
 私は駅ビルの中にある蕎麦屋で鴨そばを食べてから研究所に向かった。本当はもっと街の中を歩きたかったけれ 
 ども,繁華街までは歩いてはいけない距離のようなのでしょうがなかったなあ。とにかく勉強になった日帰りでの新
 潟行きであった。

   
                              新潟駅前の様子(万代口)

44年前?の教え子と会う(2007/01/27)
 私は大学院生であった頃に進学教室で教えていたことがあって,そのときの教え子の何人かとは今もって付合い 
 がある。計算によるとなんと44年前の教え子らしくて,誰も信じてくれない。でも本当である。久しぶりに(5年ぶりく
 らいかなあ)そのうちの2人と会うことになった。Y君(写真中)が転職したのでちょっと様子を聞いてみたいとも思っ 
 た。場所は新橋の地鶏屋ということになった。この付近に詳しい彼が自ら手配してくれた。土曜日なのに満員で賑 
 わっていた。文系のY君はメーカーに転じたので,会社間の文化の違いに驚いたようであるが,F君(写真左)から 
 は「当然だよ」と励まされていた。彼のことだから暫くすればすぐに慣れて,きっと大活躍するようになるだろう。
 コンサルタントのF君はますます順調に会社を発展させていて立派なものである。
 昔を思い出しながら,楽しく食事を楽しんだけれども,あの頃から私はめちゃくちゃな授業をしていたらしい。
 私としては至極まじめにやっていたつもりだったけれども,これは反省しないといけないなあ。でも今からじゃあ間に
 合わないから勘弁してもらうこととしよう。慙愧,慙愧と秘かに恥じた次第である。

     
 ■OSA会議(2006/10 ロチェスター)雑感
 2006年には海外渡航は一回だけであった。その折の覚え書を精密工学会メカノフォトにクス専門委員会の皆様に 
 送ったので,ここに転載しておこう。

*OSA Topical Meeting: Optical Fabrication & Testing ( Rochester, Oct.9-11) 雑感
 この会議は1990年以来,隔年で開催されてきたという長い歴史を持っているけれども,私自身はSPIE に近い立場
 であったこともあって,これまで参加したことがなかった。今回は高辻さんからのお話もあってはじめての参加となっ
 た。委員長はUlf Griesmann(NIST)であり,高辻さんと同じような平面度計測などの研究をしている。委員として名を
 連ねさせていただいたので,招待講演者を決めようということとなった時点で,私からは北川,大谷のお二人に外 
 国人を含めて数名の候補を挙げた。どういう基準で決めたか不明であるが,「複屈折は大切なのにちょっと見過ご 
 していた」というコメントがGriesmannからあった。結果としては日本からは先のお二人以外に,閻紀旺(東北大), 
 松本勝(キヤノン),山村和也(阪大)の三名の方が招待講演者となっていた。
 実はこの会議の前週にはBostonでSPIE Optics East が開催されており,とくに北川さんには計3件の講演をこなし
 ていただくこととなり,なんとも有難く,また恐縮した気持ちであった。しかしいずれも巧みにこなされておられたのに
 は感嘆するのみであった。

                   
               ジョージ・イーストマン ハウス(私は展示物よりはここの庭が好きである)

 怠け者の私はろくに,というか,まったく準備せず現地に着いたが,初日の朝に会場に入って後悔する羽目になっ 
 た。要するにSPIE会議との対比であるが,出席者数・出席者の顔ぶれ(知っている顔と名前があるか不安であった
 が)に仰天した。Stahlなどの NASAグループ,いまや大物になったJacobs (U. Rochester), Kuechel (Zygo),    
 Osten (U. Stuttgrt)のグループ,Greivenkamp (U. Arizona), Hocken(U. North Caroliina)のグループなどが参加し
 ていた。Hockenはミツトヨでは神様扱いであろうし,Ostenの代理のPrussのすばらしい英語でのプレゼンには参っ
 た。SPIEではいつもながら非ネイティブな人々による「Scientist's English」がまかり通っていて,気が楽であった  
 が,ここでは米国人が多いせいもあり,英語のレベルが桁違いである。加工分野のテーマでは,私には聞き取れな
 い,理解できないことばかりであり,さすがに緊張せざるを得なかった。会期中に次回会議に関するLuncheon   
 meetingがあり,私も出席した。Griesmannはなかなかに記憶力があり,出席した20数名を(覚え違いがないよう 
 に,と断りながら)一人ずつ名前や所属などを紹介した。初めてであった私などはどうなることかと思ったが,きちん
 と紹介してくれたし,中国からの委員として参加していたYin Ling(天津大学)のこともすらすらと紹介していた。この
 Yinは態度も服装も話す英語からも,中国人とは思われなかった。どこの国の女性かと思っていたら,発表になって
 はじめて天津から来たと判った。内容が歯科技工関するCAD/CAMという,ちょっと場違いなテーマであったが,質
 問は多かった。私にも興味ある内容であったが質問は時間切れでできなかったので後からつかめてみた。驚いた 
 ことには返事は日本語であって,熊本大学に留学していたそうであった。後から知ったのだが,米国やシンガポー 
 ルの大学でのVisiting professorとしての経歴もある。どうりで中国人らしくないわけである。また会議には,昨年亡
 くなったレンズ設計の「Frank Cooke を偲んで」というセッションもあったが,大げさなことをせずに,さりげなく個人を
 讃えるような,なかなかにうまい構成となっていて,会議のあり方としておおいに参考になった。SPIEもそうである 
 が,会員間の連帯感が強く,お互いに引き立てあっているなあという雰囲気が感じられた。このOF&T会議は今回 
 はOSA Annual meeting と同時開催のTopical meeting であったが,あまり日本人の姿がないことは(失礼ながら)
 むしろ爽快であって,私としては楽しむことができた。これは閻紀旺先生が「新鮮な経験であった」とメイルを下さっ
 たことにも通じる。
 会議の最終日の昼には,OSAスタッフも出席して,次の2008年会議に関しての議論があり,アジアを含めての開 
 催場所の検討や,他のグループと共催すべきかといった議論が長く続いた。SPIEのことも話題となり,「ちょうどス 
 パイから代表が来ているし」といった話になったので,私はてっきりSPIEのスタッフがいるのかと思ったが,これは冗
 談で,スイスでのSPIE会議で委員長を務めた某をそう呼んだことに気づかず,恥をかいてしまった。SPIEが「スパイ」
 と呼ばれることは聞き知っていたが,実際にどのような場でそう呼ばれるのかは知らなかったので,いい経験であっ
 た。ただ私は次のセッションでの司会役が当たっていたので途中で退席せざるを得なかった。このためにどこまで 
 話が進んだかは十分には把握していない。 
 日本人が少なかったといっても土井琢磨さん(産総研)がポスターでの発表をされていたし,土肥寿秀さん     
 (OptiWorks)がQEDの振りをして?参加していたりした。最終日夕方のOSA 90周年記念の会員パーティーでは東
 海大学・若木,渋谷の両先生と久しぶりにお目にかかることができた。日本にも知り合いが多いChipman (U.    
 Arizona) も得意の?日本語で元気に動き回っていた。「日本人はあまりいないよ」と言ったら,「あっちにいる女性 
 二人は日本人だ。聞いてきてよ」という。違うように思えたが,近寄って「どこから?」と尋ねて聞いてみたら,なんと
 彼の言うことが正しくて,二人は東海大学の修士の学生であった。しかも若木先生の学生である。喜んだChipman
 は一緒の写真を撮ってくれとデジカメを押し付けてきたが,その米国製デジ9カメの液晶の応答の遅さといったら話
 にならない。数秒かからないと画面が切替わらないのである。こんなものは日本であったら誰も買わないであろう。
 記念パーティーといえば,みんながグラス片手に談笑する間をうろうろしている年輩者がいた。あれっ,また来たな
 あと思ってよく見たら,かの有名なEmil Wolfである。日本であればサインを求めて行列ができるところであろうが, 
 ここでは皆さん「敬して遠避く」というか,誰も声を掛けようとしない。私も敬して遠避けさせてもらったが・・・・。
 またこのパーティーの冒頭ではOSAから簡単な挨拶があり,それとともに「Happy Birthday」が歌われた。この人物
 が誰であったかは知らないが,ラフな服装で歌ったテノールの声には圧倒された。正統派クラシックの歌声など生 
 で聴いたことがない私は人間とも思えない声の質と声量にただただ圧倒された。気になったので翌朝になってから
 Siegman (Stanford U., レーザ工学)に尋ねてみたら,OSA事務局長だったか会長が音楽が好きで,その関係で呼
 んだのだろうとのことであった。誰だかは知らないという。「会員なのだろうか」と聞いてみたら,"Could be"という返
 事であった。
 今回の2週間の旅に関しては,あまりにも多くのアクシデントがあり,大変に緊張を強いられた。その都度なんとか
 切り抜けられたが,文字通り"Exhausted"というのが正直なところである。実はRochester には30年前という大昔 
 に一度行ったきりであって,そのときに妻への土産に買った宝石箱は(現在も中身は空であるが)今でも残ってい 
 る。あのころにマーケットというか市場があった辺りが,現在のRiverside なのであろうが,周辺のビルの竣工年月
 からみると,辺りは90年代にすっかりと変容したようである。新井先生からは「何もないですよ」と言われていたけれ
 ども,私はその土地の風土と人間が好きなので私なりに大いに楽しめた。ただ動き回るのはPublic        
 transportation でのみと決めているので,ここでも頼りは自分の足とバスだけである。これもそれなりに面白い。家
 の中を覗くことも好きなので,会議の前日にSuzan Anthonyという女性人権論者が住んでいたというビクトリアハウ
 スに行った。ただ着いたばかりで行き方が解らないので,会場近くの路上にあったInformation center の出店?で
 聞いたら,そこにいた年輩者が(おそらくはボランティアであろうが)実に親切で(土曜日であったためにバスの本数
 もきわめて少なかったこともあり)解りやすく教えてくれた。これには感激して翌日礼を言いに行ったが,交代制のた
 めか別人が担当していた。残念に思っていたら最後の日の夕方にホテルのロビーで観光案内のパンフレットを並べ
 替えている彼に出会った。ほっとして礼を言うと,彼も覚えていて喜んでくれた。本当に人柄がよい人物であった。こ
 のSuzan Anthony Houseは内部の間取りも勉強になったが,あまり日本人は訪ねてこないらしいことは,来訪者名
 簿からもうかがえた。女性参政権実現のために戦ったという人物であるから,あまり日本人は興味がないのであろ
 う。日本から来たというと驚いてどうしてかと理由を問われてちょっと困った。こうした家の見学では時間を決めて  
 の,あるいは一定の人数が集まってからのツアとなるのが普通だが,話しているうちにPrivate tour にしようという
 ことになって,(一緒に待っていた娘連れの男を残して)案内役を買って出てくれた女性がいたのはうれしかった。と
 くにその英語はきちんとしたものであって,私にもかなり理解ができた。もっとも終わってから,「ゆっくりと話したつも
 りだけど,どのくらい理解できたか」とチェックはされたが・・・。「ミセス・イーストマンのようにはお金持ちではなかっ
 た」というが,ドネーションは受けないというので,お礼としてコーヒーカップやTシャツをもとめてお礼とした。ここを出
 て辺りの家々を眺めながらぶらついて通りに戻ったら,リカーショップが道の向うにある。この辺りはビールが買いに
 くいので困っていたので行ってみたが,なんと「30分後に戻る」という札が下がっていたのにはがっかりした。でもと
 にかくリカーショップはあるのだ。

           
                 スーザン・アンソニー ハウス(内部が楽しい)

宿に戻ってから(コンベンションセンターの近くの小さな駄菓子屋みたいな店に入ったら,コーラはあってもやっぱりビ
ールは置いてない。店のおにいちゃんに「ビールはないの」と訊いたら,「ライセンスが大変なんだ。でもこの先には売
っているところがあって,探せると思うよ。あまり勧めないけどねえ」という。「4分ほど先だ」というので早速歩き出し
たが,なかなか見つからない。それに途中には汚い格好の連中がたむろしていて,いささか勇気が要った。それでも
どうにか駐車場の奥に,なんとも怪しげな新聞雑誌店があるので思い切って入ってみた。アメリカの映画に出てくるよ
うな,ちょっとスラム街にあるような雑貨屋である。ネクタイをした人や白い色の人はまったくいない。さすがに一瞬は
躊躇したが,「ビールがある」に負けて店の奥まで入ってみたら,たしかにバドやハイネケンがあったのには嬉しくな
った。ダース買いして,ついでにサラダも買って帰った。このサラダを買うときは味付けを聞かれたが,よく聞き取れな
かったので「スパイシーでいい」と言ったら,本当にスパイシーなのには往生した。しょうがないからビールをたっぷり
飲んで味を薄めた。この店は大谷さんにも教えたが,行ったかなあ。私はビールに引かれて,その後も何度か行って
みた。ネクタイは外して。二度ほど行って,ガラスケースの中のサラダ弁当を売っている黒いむっつり顔の女性に,
「あまり辛くしないで」とか言っているうちに,笑顔を見せてくれるようになり,何度目かの時には「特別につくってあげ
る」と言ってくれた。調子にのって,チキンだ,ターキーだと注文をつけられるようになったところで帰国の日となってし
まった。おいしかったし,安かった。旅先では一人でレストランでの食事は寂しかったからとてもよかったのになあ。
ここは寒いせいか,あるいは治安上の問題か,大きなビルの間は二階がSky Walkという廊下でつながっていて,
Midtownというモールにも行ける。ここに行けば一通りの店はあるし,骨董屋や1ドルショプまであるのは嬉しかった。
ただ,夕方の5時には閉まってしまうのが情けなかったが・・・。街の中での観光先には科学博物館やイーストマンハ
ウスもある。イーストマンハウスの見事な中庭を見たかったので,ここへもバスで行こうとしたが始発のバス乗り場が
解らない。困っていると親切にも「どうしたのか?」と」言ってくれる人もいたが,結局解らない。まあいいや,West St.
とあるから,この通りに沿って歩いて行けばどこかでバス停が見つかるだろう。覚悟を決めて歩いたが,20分ほど歩
いてもバス停がない。ははあ,これとは違う通りをバスは走っているのだなと思ったが,どうにもならない。しかし歩き
回ることにはいいこともあるもので,偶然にも古本屋の前に出た。ふとみたら窓のなかにG.ホワイトの「セルボーンの
博物誌」がある。誰だかによる写真も入っているとある。女主人に見せてもらったら,たったの8ドルである。1903年
発行というこの本は,日本であったらとても3000円以下では買えないであろう。早速に買ってみた。ここで道を尋ね
て,なんとかイーストマンハウスへたどり着いたが,昔の記憶はまったく甦らなかった。これといって何もない街なが
ら,うろうろと歩くと結構楽しめるものである。

          
                     この店で 「セルボーンの博物誌」をもとめた

 さて次回のOF&T 会議であるが,プラン会議では2008年にGriesmannとJacobsをChairs として開催することまでは
決まったそうである。場所は多分西海岸になるであろうとのことであった。日本からの委員として数名の方の名をあ
げさせていただいた。関心ある皆様が積極的に参加されることをお勧めしたい。

■税務署に出向く(2006/03/29)
 確定申告もなんとか済ませたのでほっとしていたら,先週末に税務署から封書が来て「記載にもれがあるから31日
 までに追加申告することと」とあった。実は昨年どおりに申告書Aで提出しようとしたら,なんと私は給与申告ではな
 くて「事業者として申告せねばならない」と言われてしまって,慌ててその場でBに書き直したのだけれども,どうや
 らその時にミスを犯したらしい。実はなんとか還付金があるはずだったのに,これでまた税を払わねばならなくなる
 かと思うと気が滅入ってしまっていた。申告書の写しを見直す元気もなくて,この日に嫌々ながらに出かけた。
 午前中はオプトメカトロニクス協会の研修会テキスト用の修正原稿を仕上げることに没頭していた。もう期限なの  
 に,歳をとると原稿を書くことも辛くなることを実感する。私が若かった頃にお世話になった鈴木秀夫先生が「歳を 
 とるとイナーシャが大きくなってねえ」とおっしゃっていたことを思い出す。私もそのとおりになってしまって,次の仕 
 事への切替がなかなかできない。でも協会のCさんから「月末までに」と督促を受けているので懸命に頑張る。従 
 来のテキストには誤字や 脱字が多すぎたので訂正して,ほんの少しだけ内容を追加をする。本当はもっと加えた
 いけれども間に合わないといけないので諦める。この原稿をCさん宛てに送ってほっとする。時計も14時を回ったの
 で気力を振り絞って税務署に出かける。どうにも好きになれない場所である。私の後ろでは年配の方が署員にさか
 んに文句を言っている。言ってみたところで はじまらないのだが,税金には本当にやりきれない思いがする。私も
 補正をなんとか済ませる。申告を忘れた支払い書があったので,これを必要経費に加えてもらって,なんとかあまり
 ひどい追徴にはならなかったのでほっとする。こうなったら本でも何でも必要経費に認めてもらおう。なにしろ私は事
 業所得者なのだから。

名古屋に粉雪舞う(2006・03・13)
 某社での会議が急に中止になってしまったので時間ができた。ふと思いついて途中下車して,数週間ぶりに鶴舞 
 の古書店に立ち寄ることにした。3月は学年の切れ目のせいもあって理系の本もよく動く。でもここには何回か足を
 運んだので,さすがにこの店にはもういいものはない。まあしょうがない。でも最近興味を持っている教養教育に関
 連して,ちょっと気になっていたエッシェンバッハ:パルチヴァールがこの古書店にあることをネットの検索で知ってい
 た。定価が7000円というように,決して安価な書籍ではなかったし,読みきれるかどうかも自信がなかったので躊 
 躇した。けれどもためしにと店員さんに尋ねてみた。分類を問われて私もあやふやで困ってしまったが,店の人たち
 は「社会科学だろう」と4,5人で棚を探してくれた。なかなか見つからず,一時はどうなることかと思ったが,どうやら
 お店のデータでは「ドイツ文学,函入り,定価7000円」となっているらしい。そのうちとうとう平積みになっている中か
 ら探し出してくれた。値づけは3900円となっていて,私にはちょっとこたえたが,美本だったので思い切って購入し 
 た。いつかじっくりと読んでみたい。暗くなりかかっていたので急いで駅へ戻ったら,なんだか寒いし白いものが舞っ
 ている。あれっと思ってよく見たら,春も間じかの雪である。寒くて風も冷たいわけである。今年は春一番も3月6日 
 に吹いたことになっているのになあ。

春一番(2006・03・07)
 ようやく春の気配が感じられるようになった。私が待ち望むのは「春一番」である。以前にはこんな言葉はなくて,3
 月になるとなんとなく生ぬるく強い風が吹く日ががあるのだと感じていた。そしてそれが3月10日頃であることが多
 かったものだから,私はいよいよ春だなあと感じて元気になっていくのだった。「春一番」は元来はどこかの地方の
 漁師が使っていた言葉らしいのだけれども,新聞紙上に現れるようになって,なんとなく気象用語みたいになってし
 まい,そしていつの間にか一般的な言葉として定着してしまった。最近は春一番が吹いたと報じられるのは2月で 
 あることが多くて,私の個人的な感覚とはずれてしまっている。
 あの生暖かく吹き荒れる春風が春一番にはもっともふさわしいのになあと感じる。そうだ,高校生の頃の教科書に
 キャサリン・マンスフィールドが書いたこんな感じの風の話があったなあととても懐かしい。いつかあの話を探し出し
 て読み返してみたい。でも果たしてあの甘酸っぱかった若かりし頃の気持ちになれるのであろうか。

古書店にて(2009・03・04)
 古書店に出かけることもめっきり少なくなってしまった。時間が取れなくなってしまったことと,まずは必要な本はお
 よそ集めてしまったこととが最大の理由である。それでも散歩をかねて,というか散歩の口実として古書店に行くと
 いうのは楽しいことである。もっとも手軽な古書店は最近はやりのBOOK-OFFであって,ここでは1冊が105円という
 本が並んでいる。家から歩いて行ける距離にも一軒あるし,電車に乗ればすぐの街にもある。さすがに多少とも価 
 値がある本はほとんどないし,ましてや理系の本となるとほとんどお目にかかれない。文系であってもちょっと凝っ 
 た本となるとなにもない。今日もドイツ中世史の阿部謹也の著作が(新書などでいろいろとあるはずなので)もしや 
 と思って探してみたがまったく見つからなくてがっかりした。
 それでもたまには思いもかけない掘出し物が見つかることがある。今日もふとみたらJ.ミネカイヅカ「夜の花ざかりま
 たは小説」があってびっくりした。多分いまや誰もが名を知らない作家であろうが,ずっと以前に「雪は湿っていた」 
 を買ったことがあることを思い出した。でも情けないことに内容はまったく憶えていない。それでもなんだかとても懐
 かしくなって,喜んで105円を払って買ってきた。箱入りの立派な装丁であるし,この値段はどうみたってあまりにも
 安すぎる。考えてみたらこの著者については何も知らない。試しにとインターネットで探してみたけれどもなにも見つ
 からない。たった一つ,どうやら芹沢光治良の知合いで,本名は田中耕三という日本人であるとのことである。「芹
 沢氏がロベール・ラフォン社に紹介してフランスで小説を発表した」とある。ちょっとページを繰ってみるとかなり凝っ
 た構成内容となっているので楽しみにして読んでみよう。たまには嬉しい本も見つかるものである。