あの頃のホームページから 1


■長いので小さな文字サイズで再録してあります

研究室 その日その日 (Day by Day)

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      ここでは吉澤研究室の出来事やコラムを少しお話ししたいと思います.

高橋先生「模型航空機の製作法」,その後

高橋直二先生の模型航空機の製作法について書いた。誰もがご存知ないであろうと書いたのであるが,ちょっと気
になって調べて見た。すぐに判ったのだが,昭和16年初版のこの本は,いまだに生命を保っていることを知った。
2500円のものが1冊古書目録にあるし,もう1冊のものも別のお店にあって3000円とある。ただしこちらはすでに売り
切れていた。さらによくチェックしてみると,高橋先生は戦前の小学館の雑誌「児童生活研究」にも模型航空機教材
などについて書かれておられて,戦時中の資料として価値が認められている。なんとも複雑な思いになっている。
現在研究室でホ−ムページを担当している奥田光一君からは「僕は小学生の時に,図工の先生からもらったぱらぱ
ら漫画を今でも持っています.実家にあるはずです・・・・先生は僕が卒業する前に急逝してしまい,子供ながら寂し
いといった気持ちを感じました」という感想が来た。
考えて見ると小学校時代というものはいつまでも心に刻まれているのかもしれない。小学校4年生のころに,「子供の
科学」だったかに「キャラメルの上に乗るモーター」という記事があた。
当時のこととてすべてが手作りで寄せ集めであって,エナメル線はともかくとしても,モーターのステイターはコンビー
フの缶を開けたときの金属片を利用しようというものであった。苦労しながらごみ箱などから拾い集めた素材で作った
モーターは,しかし勢いよくちゃんと動いた。今の時代になってマイクロ旋盤とかミリマシーンとか言っているが,昔は
小学生がキャラメルの上に手作りモーターを乗せて遊んでいたのである。(02.07.29)

            講義のコメントより

私の講義は雑談が多い。なかには雑談ばかりだという人もいる。でも肝心なことは話しているつもりだし,ほんとに理
解するには自分できちん勉強しなければだめだからである。それに,どうしたことか,私の経験では雑談で聞いたこと
のほうが役に立っているし,大学学部レベルの講義の内容は必ずなにかの書物に書かれていて,必要に応じて自
分で本を読んで勉強すればよかった。むしろ書かれていないことを教わったときの楽しさのほうが印象的だった。
だから大切なことはよい資料を指示したり渡したりすることであって,あとはイントロダクションを教えさえすればいいと
いうのが私の考えの大部分である。各自で自分なりの体系化をはかるべきなのである。とくに私たちの学科で私が
担当する講義は130名ほどの聴講者がいるものだから,各論を丁寧に教えることなどは不可能に近かった。そのため
に資料つくりだけはきちんとしたが,教室で話す内容は概論にしかならなかった。先日もN社からT社に移った昔の教
え子のK君から,「光を学んだことがない人たちにどんな本を読ませればいいのだろうか」というメイルが届いた。大変
に言いにくいが,私がこれだと推薦するものはない。それぞれにいい本はあるのだけけれども,彼の言う目的にかな
った一冊はないように思われる。基本的な私の推薦書は「実用光キーワード事典」(朝倉書店)の最後に書いておい
たが,いずれも簡単には読みきれないし,即効性はないであろう。本当は私なりにまとめておけばよかったのだが,
実現していない。そんなことを考えながら,講義の都度に学生諸君からはコメントを書いてもらっている。本当はもっと
教室で意見の交換をしたいのだが,100名以上という講義の形態と,最近の学生は(本学科の学生だけだろうか)あ
まり意見を言ってくれないので,せめてこんなことで交流をはかることとしている。
前期に行った1年生向けの「機械情報計測基礎」という,よくわからない題目の講義の折のコメントから,第一回分と
最終回分のコメントのみを掲載することとしよう。
こんなことばかりをしているのではありませんよ!講義に必要な内容は一冊の資料集にきちんとまとめて配布してあ
るのですから。たとえ授業で話しそこなっても,ちゃんと読みさえすれば理解できる仕組みとなっているのです。

第一回 
■やっと講義が始まった。
オリエンテイションとか健康診断とかで待ちくたびれてしまったよ。まあ徐々にペースをあげていくのでよろしく頼む。
試験というよりは普段の講義での対応を重視しながら進めるので積極的に参加して欲しい。
■前回(02.04.17)のコメントより
○「講義への希望は面白さ、テストがなければなおうれしい。趣味は読書。しかし、マジメな本ばかりではなく、どちら
かというとライトノベルをよく読む。先週はオリエンテーションで、授業には出れるハズないです。」:山本[先週は楽し
みにしていたのになあ。なお普段の授業で貢献してくれた場合には試験免除でAをつけます]○「バスケ、サッカー、
卓球、柔道、睡眠が好きです。よろしく!!」:蓮沼[授業中の睡眠だけはだめだよ]○「授業名を見ただけでは全く
想像がついていないので、どのような講義なのか楽しみです。機械に対しての知識、理解はまだ未熟なので講義を
受ける中で深めていきたいと思います。」:田畑[まずシラバスを読んでください]○「機械とは「人間が楽をするために
作った、電気・石油等のエネルギー源を必要とするからくり」である。」:谷山[人力飛行機はどうかなあ。顕微鏡はど
うかなあ。楽するはずがそうはいかないのも機械なのだがなあ]○「神奈川県出身:19歳 男。ロボットの研究がした
くて機械システム工に入りました。」:和泉[希望が叶うように頑張ってください]○「楽しそうで毎回出席する自信が
でてきました。」:小川[毎回出席は当然でしょう]○「愛知県豊田市出身で、昔から機械に興味がありました。情報に
も興味があります。これから半年楽しく講義を受けたいと思います。がんばります。」:玉木[がんばってね]○「定刻
より早くやることが終わっても、ずるずる授業を延ばすのではなく、終わったら、ぱっと解散してください。機械の単位
はmmといった人です。あと29日が水曜だと言った人。」:辻[まだ得点にはならいなあ]○「先週の水曜日は授業あり
ませんでした。先生の感(?)違いです。機械を無理矢理2つに分けた時、意見を言いました。」:坪川[その他の分け
方も考えましょう]○「楽しい授業にしてください。よろしくお願いします。機械の世界の単位が(mm)ということは、設
計図面などで使われているので知りました。」:裕也[図面を見ていたのだ。感心感心]○「まだ専門的な事が深く分
からないので、とりあえず広く浅くでいいからだいたいで理解していきたい。」:井上[とにかく理解しましょう]○「先週
は健康診断でした。講義は11日からだったはずです。」:佐藤[ずっと待たされたなあ]○「何故、洗濯機はダメなんで
すか?」:入江[だめではないよ。どう分類するか困ったのだよ]○「だいたい悪い意味での機械だけど、いい意味で
の機械というのはないのだろうか?あと、300の単位でmmと言ったうちの一人です。」:有賀[いい点も悪い点もある
ものです]○「ぼくは、大学に入って自動車についてやりたいです。先生の経歴なんか教えてほしいです。前期の間
よろしくおねがいします。given name でおねがいします。えっと、友自という名前は、友達と自然は大切にという由来
です。」:友自[あれっ?面白いネイミングだなあ]○「情報関係の事を詳しく勉強したい。」:吉内[この講義は入り口
です。本当の勉強は自分でせざるを得ないのです]○「機械とは破壊と想像の二面性を持つもの。」:高瀬[なんだか
哲学になってきたなあ]○「静岡県の浜松出身です。浜松で有名なものはうなぎ・お茶・オートバイ・・・などがありま
す。僕の趣味はテニスやサッカーなどのスポーツです。運動が好きな人は、一緒に運動しましょう。」:大川[ピアノと
うなぎパイもあるけどなあ]○「目的しか知らずに機械を使っていたことを示されてドキッとした。これは眠くならないと
思う。」:神長[睡眠をしっかりととってきてください]○「まだ僕らは機械に詳しくないので、もっと機械を身近に感じさ
せてくれるような講義にしてほしい。」:杉本[あまり機械機械と気にしないほうがいいけどなあ]○「群馬からきまし
た。音楽好きです。楽しい講義をよろしくお願いします。」:植原[群馬かあ。残念だけど行ったことがないなあ]○「機
械と道具の違い。何気なく使っているのに、いざ聞かれてみると、はっきりしない。意表をつかれたような授業で興味
深かった。自分的にはニホンゴをしゃべれない人間に分類できると思うので、この授業でニホンゴをしゃべれる人間
になれればと・・・・。」:中島[これからの技術者には最低二カ国語は必要です。まずは日本語]○「体は18歳、心は
16歳。」:幹也[頭は?]○「たくさんの分野について話してほしい。」:須藤[議論を引きだしてね]○「機械工学への
興味がより引き出せるような講義であってほしい。」:小林[聴講者次第です]○「興味がわき出るような授業であるこ
とを望んでいます。後、機械の定義は動力により動くもの、と自分は思います。」:野上[望遠鏡はどうなんだ?石油
ストーブはどうなるかなあ]○「2000円の値段はどうにかならないのですか?」:清原[いい資料を作成してください。
2000円で買い上げます]○「けいたい電話の電源は切った方がいいですか?」:岩本[常識です]○「・山梨県出身、
朝日奨学生、一人暮らし。・メガネをかけている。講義ははげしく。」:志村[どういうことかなあ]○「機械と情報につい
て一所懸命勉強していきますのでよろしくお願いします。」:菊地[しっかり頼む]○「新入生は先週の木曜からなので
先週の水曜には講義はありませんでしたよ。」:山崎[残念だった]○「太陽電池は太陽光でなくても蛍光灯とかでも
充電できるのか最近気になっている」:小島[ちょっと調べてください]○「幼い頃、宇宙や星空の神秘に魅せられ、さ
らに機械操作が好きになったので、宇宙に関係する機械にたずさわりたいと思いました。(一応自己紹介のつもりで
す。)」:歩[夢をかなえよう]○「手あげまくっちゃうからあてて下さい。」:目崎[得点をあげまくってください]○「機械
の動きをよくりかいしたい。またたくさんおもしろい機械を作りたい。」:SHAHRIL[がんばりましょう]
最終回 
■機械システム工学科1年生「機械情報計測基礎」講義最終回(02.07.17)コメントより
■さて機械情報計測基礎の講義はすべてが終わった。試験も済んだし最後のコメントだ。4月からよく頑張ってくれま
した。諸君にはもう講義することもありませんがこれからもしっかりと学んでください。成績はお楽しみにね!
■前回(02.07.17)のコメントより
○大学の一学期の受授(?)の中でいちばんおもしろかったです。でもテストがむずかしかった。:岩本[それはよかっ
た!私も頑張った甲斐があったよ。テスト?やさしかったはずだけどなあ]○難しくていやになる授業もあったけど、お
もしろい授業も多く、ためになり知識の幅が広がったと思います。ありがとうございました。:舞草[何事にも関心を持
ってね]○先生の雑談おもしろかったです。先生は今年で退官されるときいたのですが本当でしょうか?おつかれさ
までした。:山崎[来年3月で退官します。これが最後の講義でした]○もうこれで夏休みか・・。楽しみだ!!お体に気を
つけて、これからも元気な講義を続けてください!!:大塚[まだまだ頑張ります]○楽しい授業をありがとうございまし
た。これから、お世話になることもあるかもしれませんが、そのときはまたよろしくお願いします。:玉木[これからお世
話になるのは大変だぞ!私も授業料での面倒は見ないからね]○あ〜さみしくなるような気がします。:栗尾[さびし
くなるぞ〜]○もう前期が終わりなんて・・早いです。こんな調子で大学生活も早いのかなぁ。:富田[あっという間に
終わるでしょう。心してかかるべし]○今まで知らなかった事を多く聞いて良かった。:関[もっともっと話したかったけ
どなあ]○高校での知識についておそらく高校から大学に進学するための授業というものが多く、大学のように楽し
く、自分の知りたいことを・・などといってられないのが現状だと思う。大半の高校生は受験に追われて、大学に入っ
たときにやっと学ぶことの楽しさ、喜びを味わうことができると思います。毒舌まじりの授業、おもしろかったです。あり
がとうございました。:高瀬[いまの高校生は余裕がないようだなあ。大学では自分で考えて学んでください]○楽し
い講義を有難うございました。:坪川[これからも楽しい講義がいっぱいあるよ]○楽しかったです。ありがとうございま
した。:堀[楽しいことがまず第一です]○講義が終わって残念に思う。もっといろいろな話を聞きたかった。:樋口[短
かかったなあ。私ももっと話したかったよ]○今まで熱心に授業をしてくれて本当にありがとうございました。:井上[疲
れたけど楽しかったよ]○雑談もありつつ、おもしろい講義でした。ありがとうございました。:小島[まず面白いことを
心がけたよ]○専門的なところは少し難しかったけれど、機械が少しわかったような気がするのでよかったです。:和
泉[少しずつ学んでいってください]○全体的に興味深い講義が多かった。でも体調の悪い時ばかりだったので、集
中して聞くことができず残念だった。:渡部[私はサリンを撒かなかったけどなあ]○分からないことがいっぱいあった
授業でしたが、とてもおもしろかった。いろいろな知識を手に入れることができて有意義な講義でした。でもテストはい
や。最後の最後で誤字をみつけました。このページの下から、6行目の遠路せずにいいです。:山本[打ち込み人が
間違ったようだなあ]○なかなかにおもしろい(知的に)ものでした。また会う日まで。:大塚[元気でね]○この授業の
先生はめずらしいと思った。最初はきびしそうだったけど、おわってみるとさみしいです。:石坂[どっちだったんだろう
かなあ]○新しい感じの先生でとても新鮮でした。おつかれさまでした。:山崎[本当にちょいと疲れました]○有難う
ございました。楽しい講義でした。自分で色々と興味を持ち、図書館で「デジタル放送」について調べるようになりまし
た。感謝。もうないのはとても残念でなりません。勉強を教わったのではなく、勉強の仕方を教わったような気もしまし
た。ところで、任意のレポートは返ってこないのでしょうか?どうなったんだろう。大学生レベルであることをのぞみた
いと思う。また聞きたい、だがそれはできない。残念だ・・。:高山[ちゃんと返します。大学の楽しさを味わってくださ
い]○この授業で自分の知識がまだまだ未熟だと知りました。もっと勉強します。:野上[しっかりと学んでください]○
最初は先生のペースについていけなくてとまどいましたが、次第に慣れて楽しく講義を聞くことができました。どうもあ
りがとうございました。:柳澤[楽しんでくれたら嬉しいなあ]○このコメントはかく意味があるのですか?もうのらない
のでは・・。:鈴木[ちゃんと載ってるじゃないか]○サムスンの製品は何があろうと買いません。:門野[偏見じゃあな
いかなあ]○そういえば、うちにはGEの冷蔵庫(コジマで買った)がありますが、10年も経っていないのに最近様子が
おかしい。壊れやすさと精密さは関係ないのかなぁ。それに騒音もすごい。講義、楽しかったです。ありがとうござい
ました。:佐藤[6σだよ,使い方が悪くはなかった?]○テキストの計測における情報の扱い方でθが抜けてたり、
いろいろ誤色がありますよ。:原田[君の誤植はもっとすごいなあ]○前期の間おつかれさまでした。面白いとこもあっ
たけど、また来年というのは嫌です。単位下さい。:町田[遠慮せずにまた来年もどうぞ]○Jスルーカードは、イオカー
ドのJR西日本バージョンです。でも「スルッKANSAI」のほうが便利です。でもこれらは磁気カードですけど・・。:中村
[なんじゃ,それ?]○暑くて熱い講義でした。:神長[健康的だなあ]○ふと思ったのですが、脳みその記憶容量って
何バイトくらいあるのですか。:早坂[まずは調べて見ましょう]○テスト中、とても暑かったです。またいつかどこかで
会えるといいです!:吉田[また会いましょう]○先月の給料は17万円でした。:佐藤[あまりバイトにのめり込むな]
○テスト失敗しました。来年がんばります。:藤田[これはまいったなあ]○しけんと日本語はむずかしい!とてもしん
ぱいです!:シャリル[外国語は難しいよ,でも頑張ってね]○ヒエログリフの解説が出なくてよかった。:玉村[出せ
ばよかったかなあ]○復習に終われる(?)夏休みは暑さをのりきれるよう頑張ります。:下村[暑さや寒さに負けるな
よ]○テスト微妙だったので、もう一回レポートを出したいです。:長[いいレポートを頼むよ!みんなネットから落とした
話しばかりだもん]○先生大好き、ちゅっちゅっ、だからAください!:目崎[やめてくれ!気持ち悪い!!]○お天気
情報がまた出るとは!読みが甘かった・・。:伊藤[人生甘くないぞ]○テストを提出するのに出席カードを出す意味は
あるのだろうか?EBISUビールのビンにはってあるラベルに時々鯛が2匹います。:朝倉[有名な話しです。昔はふた
の裏に当たりがあったこともあるのです。なおYEBISUだよ!]○正直中間テストで出たことが再び出るとは思いませ
んでした。なんとか思い出しながら答えました。:河野[油断大敵]○テストは精一杯がんばりました。:水島[どれど
れ?]○最後のテストに向けて精一杯頑張った。:平泉[できたかなあ?]○テストのできがよかったので満足してま
す。今までありがとうございました。:蓮沼[本当かい?]○中間テストの範囲が出るなんて聞いてないよー。:田中
[出さないなんて言ってないよー]○テストのカンニングペーパー作りはとても大変でした。:大代[公認カンペは勉強
になっただろ]○短い時間でしたが、色々とありがとうございました。公認カンペ作りは復習にもなって、とても役立ち
ました。テストは完璧か・・(?):古谷[すごい!!]○最後のテストは思ったより難かしかった(?):二戸[やさしい
はずだけどなあ]○公認カンニングペーパーがあまり有効活用できませんでした。:田村[う〜ん]○このテストはカン
ニングペーパーがないときつい。:高橋[だから準備させたのです]○おつかれさまでした。ありがとうございました。
最後の自己採点で自分の評価はSが相応しいと書きましたが、本心では"S"もらえないだろうな、としっかり思ってま
す。でも"S"が欲しい・・。:野田[さあどうしよう?]○もう少し復習すればよかった。:索[期待していたのに]○一進
法の計算方法とか論理回路がけっこう楽しかった。:小林[なんじゃ,それ?]○「時には 出来ぬは 人のならいな
り・・ 吉澤先生点くれたまえ」・・楽しみました。阿部[だから普段から貯金しておくのです。試験だけで評価はしませ
ん]○・・いまいち勉強不足だったのが悔やめる。前学期、ありがとうございました。:塚本[もっと勉強して欲しかった
のになあ]○ドイツの話は楽しかったです。情報は難しい内容でした。:植原[そんなに難しくなかったはずだけどな
あ]○自分は通常にスイカを使っているが、そのせいか知らないが国分寺の乗り換え改札で間違ったことをしたわけ
でもないのによく引っかかる。先日も引っかかった。引っかかるときはとことんだめで何回やっても通してくれないので
普通の改札から出るとちゃんと出られる。なぜあのようなものをつくるなら携帯しているだけで通過できる改札をつくら
ないのかと思う。ペースメーカーの影響などあるからだろうか。便利さの度合ではスイカなど比べものにならないと思
う。:原[スイカをつくった人たちに聞いてください。やっぱりだめスイカなのかなあ]○企業の裏側など、普段の生活や
プロジェクトXからでは見えない側面が理解できてよかった。:清原[でも,あまりよそでしゃべらないでください]○どう
もありがとうございました。最後にお願いがあります。単位下さい。:瀬戸
[このお願いだけはなあ・・]


        高橋直二著:模型航空機の製作法

いまや誰もご存知ないであろう本について書いておく。実は研究室を整理して引越しをせねばならなくなってから,
少しずつ片付けては横浜のオフィスに本を運びつつある。問題なのは,こうした折に大切な本がなくなってしまうことで
ある。過去にも数冊の大事な本が消えてしまった。今回は慎重にことを運んではいるが,やはり用心しないといけな
い。先日もはたと気がついたら「模型航空機の製作法(昭和18年第六版,元宇館発行)」がなくなっていることに気
がついた。慌てて探したが何処にも見つからない。オフィスにも大学にもないのである。著者・高橋直二とあるが,こ
の方は,なにを隠そう私の小学校時代の図工の先生であった。髪の毛を短く刈って坊主頭にされていて,なんとなく
おとなしい老人に思えた。といっても現在の私よりはずっと若かったはずである。小学校の3年生から5年生くらいま
で直接のお世話になったのではないかと思う。どちらかというと絵画よりは図工を得意とされていたようである。
私は工作は好きではあったが,残念なことには絵は苦手であった。高橋先生は遠慮がちに人生を生きているなあと
いう印象が子供心にもあったが,あるとき担任であった女性の先生が「高橋先生は戦争前には『模型飛行機の高
橋』として有名だったのよ」と言われたことがあった。たった一度だけである。この言葉がなぜか心に引っかかってい
た。高橋先生のお宅は,私の家からもそれほどに遠くないところになるタバコ屋さんであって,私も父から頼まれてお
使いに行ったりしたので,時には店番をされている先生からタバコを買ったこともあった。うわさでは奥様に当たる方
が大変に気の強い方で,先生は静かにひっそりと暮らしておられるということであった。最後にお会いしたのは大学
の2年生のころで,通学途中の駅でぱったりと出会った。「精密工学という分野を学ぶことになりました」と申しあげる
と,「これから伸びそうな分野だね」とおっしゃっておられた。それからお会いする機会もなかったような気がする。
その後,数年して先生は病に倒れて入院されたという。母によれば,ちょっと惨めな状態で亡くなられたという。そん
なことが昔の先生に関する思い出である。ところが5,6年前のことであるが,私は鶴見の西田書店(この店は徳永
君の実家の近くにある)の棚で,なんと「模型航空機の製作法」を見つけてしまった。ちょうどお盆のころであった。
本当にびっくりした。私はまさか「模型飛行機の高橋」が本当であるとは思っていなかったからである。500円というの
で買って帰った。しかし,すでに私には工作少年であったころの情熱は失っていて,研究室の棚に並べて置くだけで
あった。いつか仕事がなくなったら,また何かを作ろうかという気持ちもあったので,その他の模型工作の本と一緒に
並べながら。そんな本がなくなったので私はがっかりした。ほかの工作の本はあるのに,これだけがないのである。
しかし神様は私を見捨てなかったとみえて,一昨日のこと,研究室の棚から無事に見つかった。今度はなくさないよ
うにしようと誓った。本探しにあっては,有名は本は必ず手に入るものである。
例えば入手できないということで有名な「ロバート・ネイサン:いまひとたびの春」などは,お金さえ出せば必ず古本屋
の奥の棚から出てくる。店頭を探しているからないのであって,店の主に聞けば何処そこにあると教えてくれる。
私も先ごろ(まあまあ適切な値段だったので)求めた。ところが問題なのは誰もが相手にしないような本で,自分にと
っては貴重な本の場合である。あれば値は安い。しかし誰もが粗末に扱うし,気にしないから何処にあるのか判らな
い。下手をすればごみ扱いされてしまう。高橋先生のこの本も,昭和16年から18年にかけて6版を重ねた当時のベス
トセラーなのであろうが,いまやおそらくはどなたもがご存知ない本となっている。私が出会ったのはまさに奇跡であ
る。あらためて本を拾い読みすると,先生は熱心な模型飛行機のマニアで,戦前も国民学校の先生をされる傍らに模
型飛行機つくりに情熱を注がれたようである。そして本のあとがきは「この本を読み製作される皆さんの中から,やが
て果てしない大空に活躍される人々や,将来の優秀な航空技術者が,一人でも多く出てくださるように心から祈って
ゐます」と結ばれている。おそらく,私が教わった昭和20年代の前半という時代にあって,先生は戦前の活躍の場を
失い,航空機技術への夢も断たれて,静かに小学校の図工の教師として暮らしておられたのであろう。あのころ,ふ
と気がついた新聞の小さな記事によれば,東京都が主催した工作展かなにかに,「吉澤徹」という名の小学生が入
選していた。小学校名はまさしく私の在学している学校である。しかし私にはまったく覚えがなかった。私が作った何
かを高橋先生が出されたのかなあ,とも思ったが,ひょっとしたら,高橋先生ご自身が何かを作って,私の名前でお
出しになったのかも知れない。確かめることもなく終わってしまった。無事に発見した小さな茶色の本の写真を載せて
おくことにしよう。(02.07.24)



                   しおはま やすみ



皆さんは連休をどう過ごされたのであろうか。
9連休とか,中には12連休という方もおられたそうだから,
なんとも羨ましく優雅な休日の過ごし方をされた方もいらしたのである。
私も来春での退官がなければ,そんな楽しみを味わいたかったのだけれども,
口惜しいことには本の整理をしなければならない。
そこで研究室の本を整理していたが,家に置いてある本も気になるものである。
その気になる本の一つに「詩集 しおはまやすみ」があった。
発行されたのは昭和47年というから30年も以前になる。
たしか図書新聞のコラムに記事が載っていて,とても読みたくなってしまった。
ところが出版元の交研社というのは聞いたことがない。
そのころに勤務していた大学の正門前に星野書店というのがったので,ここに注文を出してみた。
大分経ってから「ありませんでした」という返事である。
まずいことには私はミスをしていて,
私が書いた注文伝票には出版社を「交社社」としてしまったのである。
これではあるわけがない。
私は気がそがれてしまって,再注文をすることもなかった。
ところがこの本のことが気になってしょうがない。
大学を移ってからも折に触れて古本屋の詩集の棚をのぞいてみたりしてもまったく手がかりがない。
そんなある日,新宿の歌舞伎町に近い通りにある安売り店の前でこじんまりと古本が売られていた。
見るともなく立ち寄って見ると,店頭の平棚の中に
なんとまさしく探していた「詩集 しおはまやすみ」がある。
なんと20年ぶりに見つけたのである!箱の裏には鉛筆書きで500円とある。
すぐに買って帰った。
ところが人間の気持ちというのは変わるのであろうか,
どのページを開いても,図書新聞で引用されていて私の心をひきつけた短い言葉がないのである。
それでも私は箱をさすり奥付を見ては楽しみ,家の書棚に収めた。
それからまた15年も経ってしまって,私は本の整理に追われる身になった。
そして,さてあの本はどこにあるかなあと気になりだした。
心配は無用であって家の玄関の棚の上にしまわれていた。
連休中のことである。取り出してまた久しぶりに読み返した。
時はさらに流れていて,著者が愛惜をこめて詠んだ東京の街はまったく変貌してしまっている。
私も時と共に歳をとったなあと感じざるをえない。

「秋の音は
追憶の中の
東京という町の
立ち並んだ家並み」

私はページを繰っては記憶の中の東京や大好きな公園の散歩道を思い浮かべた。

「たそがれの
逢魔カ刻の
薄闇の空気をつんざく
豆腐屋のラッパの音の
真鍮色」

あのころは確かに東京の街があったのである。
この詩集は限定版で,550部が印刷されたというが,私が手にしている本には
「そのうち  番」となっていて欠番である。
どうやら正規に頒布されたものではないらしい。
550部の印刷では入手が困難な訳である。


なお著者は光文社に勤務していた方で,私が持っている著作には「ファッション革命」
(日経新書,昭和54年)がある。
(02.05.27)




 
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ジギタリスが咲いています



5月は花の季節である。
東京の街のあちこちにも美しい花が咲いていて,とても嬉しくなる。
私は花が好きであるが,その中でももっとも思い入れがあるのがジギタリスである。
日本ではあまり一般的な花ではないけれども,最近は時々見かけるようになった。
ずっと昔,「ヘンリー・ライクロフトの私記」を読んでいたら,
「花はなんでも好きである。ジギタリスのような雑草でも・・・」
という記述があるのを見つけて以来,どこかにないかなあと思ってきた。
ところが本には出ていても,実物を見ることがなかった。
そのうち横浜の「サカタのタネ」で,袋入りのタネが売られているのを見つけた。
早速まいてみたけれども失敗してしまった。翌年だったか,また再挑戦をした。
今度は用心して水をきらさないような鉢を選んでまいた。
今度はうまくいって,やがて芽が出た。
なんの手入れもしなかったのに茎はすくすくと伸びて,びっくりするほどに大きくなった。
そして大ぶりの花が家のベランダで咲いた。花の色は白か紫がかった赤である。
辞書を見たら英国ではFoxglove というと書いてある。
でも日本では普通ジギタリスと呼ばれている。
最近話題を読んでいるネット上での辞書があって,語数は100万とか,
出ていない単語はないというので,試に引いたら「キツネの手袋」となっていた。
これでは解りにくいなあ。
ついでにほかの単語も引いてみたら随分と間違いがあって,専門用語はしょうがないにしても,たちまちに3つのミス
を見つけてしまった。
困ったものである。
さてこうしてジギタリスはいとも簡単に咲かせられることが判ったので,
それ以後は家の玄関辺りにまいてみた。
ろくに世話もしないけれどもいとも簡単に花をつける。
ただし茎の成長が早く,また花が重いので雨や風で倒れてしまうことが多い。
しょうがないから100円屋さんに行って,園芸用の支柱を買ってきて支えてやる。
花の期間は長くはないけれども,私にとってはなんとも豪華な花の様子が好ましい。
今年も写真のように咲いている。不精なのでいまだにパンジーも咲かせたままである。
花を眺めながら,英国の春に思いを馳せ,またギッシングの世界に浸るのである。
(02.05.26)




 
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卒業おめでとう
今年も卒業式の季節が巡ってきた。
暖冬だったせいか,入学式ではなくて卒業式に桜が見られるという妙な状態であった。
大学もいろいろな意味で変わりつつあって,学生の気質も変わってきている。
大学自体が一体これからどうなるのか先が見えなくなってしまった。
18歳人口も減少していることだし,多摩地区の大学はいくつかが合併していくことによって存続をはかるべきであろ
う。
うっかりすると出身母校がなくなってしまうなどということになりかねない。
今年の研究室からの卒業生と修士課程修了生の写真を載せることとしよう。
あっ,ごめんよ。
今年は山本助手がようやくにして博士号を取得した。
3年ほど遅れてしまったが,れっきとした課程修了での博士号である。
皆さん,祝ってやってください。
それに(写真には写っていないけれども)OBである徳永剛君(職業能力開発大学校講師)も論文提出によって博士
号を獲得した。
これも嬉しいことである。
皆さん,おめでとう!それぞれに頑張ってください。
(2002.04.18 記)



 
にこやかな笑顔の皆さん
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2001年08月27日




棚橋君とサンフランシスコで会う



7月末から8月にかけてSPIEのSan Diego会議に行った。帰途は少しゆっくりしたかったので
サンフランシスコに立ち寄ることとした。大変にいい街で何回行っても飽きることがない。
最初に踏んだ米国の土がサンフランシスコであったことも思い出した。なんと30年もの昔である。
ここの郊外のプレザントンにある某社に棚橋君が赴任して,もう3年になるという。
いい機会なので久しぶりに会うこととした。彼も忙しいので8月5日の日曜日に会うこととした。
私が泊まるのはいつも安宿である。それでも勘が働いてまあまあいいところがあたる。
どうしてもユニオン広場のあたりが便利であるが,ホテルはピンきりである。
いくつか安くていい宿を見つけてあるが,今回のSホテルがいちばんいいいところである。
でもシャトルの運ちゃんも知らない宿である。
当日の朝はちょっとビクトリアンハウスが見たくなったので,またまた出かけた。
バスに乗ったら野菜や果物を下げたおばさんたちが途中から乗ってきたので,
日曜だし,さてはどこかで朝市があるなと見当をつけた。私はこの手の市やファーマーズマーケットが大好きである。
とくにお店や野菜の写真を撮ることが好きである。帰りのバスでじっと外を見ていたら,やっぱり市が立っている。
そこで慌てて降りてしまった。いつものようにとても楽しい。
知らない魚やズッキーニなどの野菜を眺めたり写真に撮ったりする。買いたいけど持って帰れないのが情けない。
ここの魅力にとりつかれて,あわててホテルに戻ったら棚橋君が先に着いていた。申し訳ない。
久しぶりに会った彼は大変に頑張っているようである。
話を聞いているうちに,昨日バスの窓から見たカリフォルニアのセントラルバレーのことがピンときた。
あの広大な平原で,どうやって穀物が栽培できるのか,水をどうやって回すのか,実によく解った。
やはり現地を見ないとダメである。レーザの応用に米国ではすぐに測量機が結びついたのに,
日本で用途がなかったのは狭い土地であったためである,などとしたり顔で書いたりしてきたが,
その本当の意味が彼の話でとことん解ったのだ。なあるほど!
昼食をヒルトンでとった。珍しく金門橋にまったく霧がかかっていなくて,じつに眺めがいい。こんなことは初めてだな
あ。
私は今回も高いところからサンフランシスコを眺めたかった。ところがツインピークスに登るには車が必要である。
そこでエンバカデロセンターにあったスカイデッキに行こうとした。とこらがである,フロアの案内板にないのである。
「何か探していますか」とビルの案内人らしい男が近づいてきたので訊いたら,なんと閉鎖されてしまったという。
残念である。でも棚橋君のおかげでこんなすばらしいレストランから街が眺められたのは嬉しかった。
食事の後で「どこか車で行きましょうか」と言ってくれたので,ハアス・リリエンタール・ハウスをお願いした。
ここは唯一公開されているビクトリアンハウスであるが,もう何回も行っていながら
公開日が週二日の数時間に限られているので中を見たことがないのである。
日曜なら12時から4時までが邸内ツア時間になっていて,まだ間に合う。
坂道も登り下りしながら,彼の車で連れて行ってもらった。
15分ほど待たされたが,私たちの番となって邸内のツアがはじまった。我々以外には米国人二組である。
案内人の女性が説明してくれるのだが,かなりの早口である。
ご本人も承知の上で「早口で説明してるけど解る?」などと質問してくる。
とても解るわけないけど,話しなんていうのは1/4も解ればすべてが解るものである。とても面白い。
「何処から来たの?」なんて見学者にも訊いてくる。とてもすばらしい邸内である。
建築の様式なども丁寧に説明してくれるので楽しい。棚橋君に感謝する。
5,6回も外からだけ眺めて,やっと中に入れたのだから。御礼を言って彼と別れた。

翌日の月曜は出発日である。遠くまでは行けないので,いつものようにノブヒルに登る。
ここのグレース大聖堂を見たかったのだ。ところがついていた!
昨年は工事中で覆いがかぶっていたのに,今年はばっちりと堂内が見られるのだから。
すっかりときれいに修復されていて,ステンドグラスもすばらしい。思わず献金までしてしまった。

こんなすばらしい街で仕事ができる棚橋君には,これからもおおいに頑張ってもらおう。(T.Y)







写真:ヒルトンのレストランにて、棚橋君と。
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ユストさんの近況



6月にミュンヘンに行った帰りには,久しぶりにダルムシュタットにユストさんを訪ねることにした。
ユストさんを知っているのはいつごろの学生だったろうかなあ?大谷君がいたころだから随分と以前だったなあ。
ドイツのエッセン大学の出身で,大学院を終えてから日本に来て,しばらく研究室に滞在していた。
あのころは私もどう対応していいのか不慣れで,ちょっと迷惑をかけてしまったかもしれない。
でも彼は文句も言わずに日本滞在を終えると,その後はアメリカに渡ってIBMに3年ほどいた。
いわゆるポスドクの武者修行である。
ドイツに戻ると,気象衛星からの画像情報処理を仕事としてEUMETSATに勤務した。
はじめはミュンヘンにいたので,私もミュンヘンに彼を何回か訪問したことがある。
とくに彼と一緒に行ったビール屋さん"Hackerhaus"はゼンドリンガー通りにあって,私は好きである。
知らない人はあまり奥に入らないが,実は店の奥には中庭があって,ここが中世の名残をとどめているのがいい。
ここで食べたドイツダンゴはいまでも懐かしい。
この通りにはここ以外にも裏庭に中世のたたずまいを残す建物があって,いつもこっそりと忍び込むことにしている。
さて話をユストさんに戻そう。彼はミュンヘンからダルムシュタットに転勤してきた。
はじめは「ダルムシュタットは勝手がわからないなあ」などといっていて,私のほうが街にはなじみがあった。
いつだったかフランクフルトで会ったりはしたが,会社には行ったことがなかった。
私も歳をとってきたので,「もうドイツに行くチャンスも減ってきたよ」と嘆いたら,今年は是非会社で会おうという。
藤田さんも行って見たいというので,一緒に行くこととした。彼も忙しくて,我々が行く直前までアメリカに出張している
という。
6月22日から週末にかけては時間を取っておくというので嬉しかった。
ダルムシュタットでは(いつもの八百屋の前のルードイッヒではなくて),ワインミッチェルに宿を決めた。
ここのレストランで1回だけ妻と夕食をとったが,お薦めのメインディシュはなんとアスパラガスであったのには驚い
た。
高校生のころに,季節になるとアスパラガスを食べる楽しみを書いた本を読んだことがあったが,
まさか自分がそんな夕食をとることになろうとは思わなかった。
当日は藤田さんもハイデルベルグからやってきて一緒に会社を訪問した。とてもすばらしい施設である。
ここからヨーロッパの気象がすべてえられるのだ。
リアルタイムでヨーロッパの天候状態が映されている。日本はどうかなと,
はるか極東方面をみると(残念ながら画面の端っこだが)すべて雲に覆われている。梅雨の季節だからなあ。しょうが
ない。

ここを見学してから,フランクフルトに車で出た。例によって旧市街をちょっと歩いてから,
気に入っている日本料理屋があるので寄ろうという。
店の屋号の意味がわからないというので,はじめは「シゲマツ」かと思ったので,「店の親父さんの名前だろう」と言っ
たが,
行ってみたら「シゲマツ」ではなくて「ヒゲ松」であった。なあんだ!日本人ビジネスマンもいるし,現地のドイツ人も多
い。
焼き鳥などを食べる。なかなかによろしい。

翌日は「どこに行きたい?」というので,車でないといけないフランケンシュタイン城跡に連れて行ってもらった。
ここの城跡を見てシェリー夫人がインスピレーションをえて,例の「フランケンシュタイン」を書いたのだ。やっと来た!
と嬉しくなってしまった。眺めもいい。テラスで食事する。トイレに行った妻が「暗いトイレだったし骸骨があったのでび
っくりした」という。
「それじゃあ,まるでHaunted houseだね」と言ったら,「Haunted toiletさ」という。うまいこと言うなあ。
ここからハイデルベルグにドライブする。久しぶりだ。でもここのことは書かない。ありきたりになるから。
帰途に夕食をとることとした。ダルムシュタットの郊外にいいところがあるという。
行ってみたら本当にすばらしいレストランである。うーん,これはいい。
ずっと昔,英国のイプスイッチの郊外にあったお店に行った時と同じ雰囲気である。
あの時は,その店の前の道は,ナポレオンが進軍したこともあったと言われた。
それにホールさんに連れて行ってもらったセントニーツのカレー屋さん(元パブ)にも似ている。とてもいい感じである。
なんていう店だって?教えません。荒されるから。この田舎町の雰囲気もいいし,もう一度行ってみたいなあ。
ユストさん,今度日本に来たら,歓迎します。(T.Y)







写真:EUMETSATのユストさんの部屋にて。藤田さんとともに。
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2001年08月20日




SPIE HeadquartersからKristiとMarshallが来日

SPIE本部のKristiからメイルが来て,InterOptoの期間中幕張に滞在するから,
Japan Chapterの委員とも会えないかという。
今年からChapterのChairは谷田貝先生(筑波大学)にお願いしているので,早速に連絡をしたところ,
7月18日しかあいていないという。まずいことには他の委員は全員がこの日は都合がつかない。
でもしょうがないから谷田貝先生と二人で会うこととした。
日が迫ってから副事務局長のMarshallも(併催のCLEO/Pacific Rimに出席するために)
一緒であることが判ったので,あわてて駅前の「つきじ植むら」に席を設けた。
今回はさしたる話題はないので気楽にいくこととしたが,念のために早めに展示会場のSPIEブースに急いだ。
私もこの日は午前中は講義があったので,講義が終わってから急いで電車に飛び乗った。
幕張はちょいとばかり遠い。着いたら3時になってしまった。
二人にとりあえずの挨拶だけはして,あわてて展示も見た。
Kristiとはしばらくぶりだが,Marshallとは6月に横浜で,またその後はMunichで会っている。
この日に幕張で会ったあと,次には月末にはまたSan Diegoで会うから,
なんと2ヶ月に4回,2週間に1回の割で会っていることになる。
いくら世界が狭くなっているからといってもこれはものすごい。
夕方「植むら」に行ったら,谷田貝先生はすでに部屋で待っていた。
ところが肝心の二人がこない。心配になったが,なんと外で待っていたという。
こういう場合にはどうやら外で待つものらしい。日本では部屋で待つのが普通なのだが。まいったなあ。
意見交換だけでよかったので,気楽である。「重要な問題はなんだい?」とMarshallに聞いたら,
「どのビールにするかということだけさ」とからかわれてしまった。
話はおおいに弾んだが,内容は秘密である。Kristiはビールは飲まなかったが,冷酒には口をつけていた。
でも折角のシャブシャブを残したものだから,「アイスクリームならいくらでも食べるけどねえ」と
Marshallに冷やかされていた。月末のSan Diego会議のお土産には「抹茶アイス」がいいそうだけれども,
これは無理だよねえ。
私は熱さと湿気とで元気がなくて,ご馳走にも食欲がなかった。もったいないなあ。(2001.07.18)(T.Y)




写真:つきじ植村にて
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2001年05月14日


星真由美さんが加わる


一つの大学に20年以上も勤めていると,いろいろな雑誌や文献その他がたまってくる。
そのうちになにがどこにあるのかが解らなくなってきてしまった。
先日新聞を読んでいたら,「私のうちにはモノノケが住んでいる」という投書があった。
「家にはモノノケが棲んでいて,読みかけの本は隠してしまうし,
買ってきたばかりのお菓子などは勝手に食べてしまう。
友達はめがねがどこかにいってしまったなどと嘆くけれども,それはたんなるボケにすぎない。
私の家にはモノノケが潜んでいるから始末が悪いのだ」という。
勝手に品物を動かしたり,水道をひねったままにしてしまうこともあるという。
ところで,私の部屋にはモノノケはいないが,どこかにブラックホールがあるから,
やたらとものが吸い込まれて消えてしまう。参るのは文献がすぐに消えることである。
何回もコピーをとってもらってもすぐにどこかに吸い込まれる。ボケではないぞ!
その証拠にはどこからか出てくることがないからだ。ひたすら消えるのみである。
そのうえに部屋の床にはエネルギーが蓄えられていて,本を床に置くとこれがどんどんと増殖する。
床からエネルギを吸収しているのだ。とうとう歩くスペースもなくなってしまった。う〜ん,これにはまいったね。
遂に覚悟を決めて秘書探しをはじめた。するとすぐに,高瀬海君が紹介してくれたのが星真由美さんである。
英語がちょっとできないと困るんだけどといったら,「僕よりできます」という。
「僕よりできる程度では困るのだ」といったら,「この3月に某女子大を卒業するんですけど,
ある資格をとるために時間がとれる仕事をしたいんだそうです。
とくに英語は習ったことはないそうですけどTOEICで650点です」ともいう。
なんじゃ,それ?でもパソコンが扱えて英語ができれば有難いということで,4月から秘書を務めてもらっている。
給料が安くて申し訳ないけれども,一生懸命に働いていてくれる。
おかげで大分片付いてきたし,私も頑張って整理整頓を心がけることとした。
座ってもらう机もなかったので,安物ではあるが机を購入した。
注文を受けてから中国で製作したという品物である。約1ヶ月待たされて,連休中にやっと入荷した。
4年生の碓井君らに組上げてもらったが,さすがに某国だけあって,製作精度がちょっと不足である。
ボルトの強度も足りないのか,あるいは某君が怪力なのか,締めたら折れてしまったという。
だから脇机は天板に手をかけて持ち上がることができない。そのまま取れてしまうからである。
側板もボルトを締めようとしたら,一箇所はざぐりがされていない。
まいったのは付属の棚の棚板の寸法が合っていないことである。
さすがの4年生も「ダメですよ,これ」とか言うと,冷たくも帰ってしまった。
こうなったら私が日曜大工の腕をみせるしかない。2時間ほどかけて夜中に完成した。
部屋に持ち込むのには参ったねえ。通りかかった学生などに手伝ってもらって,ようやくに位置を決めた。
でもまたもやボルト2本がブラックホールに吸い込まれてしまったので脇机の天板の調整ができない。
それでも星さんは喜んで座っていてくれる。写真をみてください。
星さんのプライバシーに関することは(知りたいでしょうが)書けないので,
彼女のホームページを(あるかな?)見てください。連休が明けて,研究年報も印刷が仕上がって搬入された。
これも最後の編集作業は星さんがしてくれた。でもなんとVol.4 (1997/1998)である。ごめんなさい!
すぐにVol.5 (1999/2000)の編集に取り掛かってもらいますから。
今日(01.05.10)は藤田さん(シチズン時計,本学非常勤講師)が研究の打ち合わせに来てくださった。
「あれっ?あの辺に積み上げられていた本の山がなくなっていますね」と感心してくださった。
「星効果」は絶大である。これからもどんどんと頑張っていただく予定である。








写真:苦心の末に組みあがった机に座った星秘書。パソコンはナタリアさん,金さんが使用した由緒あるものである。
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この頃の古本探し


最近はあまり古本屋さんを歩かなくなってしまった。最大の理由は時間がなくなってしまったことである。
それでも時々は息抜きをかねてあちらこちらを歩いてみる。しかしあまりいい本には出会わない。
そんな時にはネットで本探しをしたりする。
昨年の12月には三次元工学研究会があったが,ここでは資生堂のTさんに「お化粧における三次元計測」
に関するお話をしていただいた。プレゼンテイションが巧みであったせいもあり,大変におもしろく好評であった。
この話の導入部で,Tさんは錯視について触れて,ある画像を使われた。
これは有名な例であるし,私も講義で使ったりしていた。
ところが(作り直そうと思いながら)私はなんとスライドのままで持っているのである。
講義では瞬間写真の例などとともに使っているので,古臭いのは承知のままに使いつづけてきた。
ところがTさんはちゃんとPCプロジェクタで講演された。
これではやはりせめてOHPにしておかなければいけないなあ,とつくづく感じた。
ところがもとの画像が載っていた本,「印写工学」の何巻目かが手元にないのである。
メッツガー「視覚の法則」などにも出ていることは知っている。ところが手元にないとなるとなんとも気になるものであ
る。
私が持っていた本は以前の勤務先に残してきてしまったし,探してみても古本屋さんにはないのである。
うーん,くやしいなあ。もちろんTさんに頼んでお借りしてもいいのだが,こうなると自分でも持っていたい。
「視覚の法則」は心理学で有名な本であるので,そんな分野を専攻したTさんは持っておられてもおかしくない。
ためしにとネットで探って見るとあちこちで引っかかる。
ところが「心理学での基本図書」とでるくせに,「図書館にもないであろう本」とくるから口惜しい。
うーん,残念だなあ。古本屋さんを探してみると,白揚社から出ていた古いほうの版はわりとある。
しょうがないので一冊買ったが,図があまりきれいではない。やはり改訂版を訳した岩波書店版が欲しくなる。
ところがこれがない。20年くらい前には確かにあって,当時で定価が9,800円という立派な本であった。
ところがこれが見つからないのである。有名な本であるだけに口惜しくなる。
しかし有名な本なので必ず見つかると思っていたら,とうとう北の果て北海道の本屋さんにあることが判った。
実際に行ってもみないのに見つかるとは有難いことである。いくらで買ったかって?内緒である。

さて卒業式も近づいた3月のことである。あるプロジェクトの提案書作りに関連して何回か都心に出る機会があった。
帰りにはわざと地下鉄を使うのは荻窪が終点だからである。
駅前には4件ほどの古本屋さんがあり,私が大好きな一角である。
あるお店でふと見ると,床に積み上げられた本の中に小学館「日本大百科全書」全25巻がある。
結構きれいである。まだ仕入れたばかりであるようだ。いくらかなあと手にとってみたが,まだ値がつけられていな
い。
ややこしいのは古本屋によっては,こうした場合には「触るな!」とか「いじくるな!」と言われる場合があることであ
る。
店番はいつもの店主ではないし,まあいいかとそのままに帰ってきた。
このような百科事典はいろいろとあるけれども,私はこれが一番好きである。
といっても発刊されたときに買えなくて,その下のジュニア版とでもいうべきもので間に合わせてきた。
その後になって少し余裕が出てはきたが,置くスペースもないので諦めてきた。
ところがある日のこと,武蔵小金井の古本屋さんでCD版(Win版)がとてつもなく安く置いてあった。早速に買った。
愛読者カードを出しておいたら,その後にDVD版も特価で出るという通知を受けた。
これも場所は取らないのでMac版を求めた。したがって一応の用は足りるのである。
ところがやはりコンピュータ画面で見るよりは,紙面で見ると品位が違う。私はむらむらと買いたくなってしまった。
しかし10万円と言われたら手が出せない。5万円と言われたら悩もうと決めた。3月15日のことである。
最後の会合が芝であった。思いもよらずに報告書の原稿料をいただいた。嬉しくなってしまった。
帰りはまた地下鉄である。例の本屋さんに立ち寄ったら,百科事典はまだそのままである。
値段もつけられていない。ちょっと悩んだが,その日は店主が立っていたので,
おそるおそると「売りものでしたら,おいくらでしょうか?」と尋ねたら,なんと「あれですか?一万円でいいです」
とニコニコしていう。うわっ!これでは格安だと思って買ったCD版よりなお安い!!思わず
「買います,買います!」と叫んでしまった。「でも運ぶの大変ですよ」と店主。
「いいです,土曜日に車できますから」と私。翌々日の17日,私は地図を睨みながら荻窪へと車を走らせた。
研究室の学生に「荻窪ってどうやって行くんだ?」と聞いたが,みんな頼りなくて話にならない。
このときになって,はっと思い出したのだが,ずっと以前,研究室にいた藤原基君
(その後,日本飛行機に就職して,現在は多分ボーイングの仕事でシアトルにいるはずだ)などは,
ついでに行ってきましょうとか言って,気軽にこの店まで全100巻の世界文学大系をとりに行ってくれたことがあっ
た。
昔のことである。今回は地図を片手に自ら出かけたが,まずいことには途中で雨が降り出してきた。
まいったなあと思ったが,なんとか荻窪までたどり着いた。
実はこの駅前の道は込み入っていて,しかも一方通行があるので苦労する。
もたもたしていたら,後ろからバスに「ブー」とやられてしまった。
やっとこ店についたら,店主は5巻ずつ縛っておいてくれた上に,「雨だから」と一緒に車まで運んでくれた。
気のいい方である。そして降り続く雨の中,どうやら無事に大学まで帰り着いた。ところが問題は置き場所である。
これには悩んだが,棚一段を無理して整理した。
あれこれと捨てざるをえなかったのが辛かったが,これで物を捨てる決心がついたからまあいいではないか。
並んだ百科全書は写真のように棚に鎮座している。単なる飾りになっては困るので,せっせと引いている。
便利である。やはり百科事典はワンセットを手近に置くべきである。
 
昔ちょっと読んだままで懐かしい本というものもある。
ロバート・ネイサンの「いまひとたびの春(One More Spring)」はその典型である。
実を言うと,これは高校生のころに,その一部を英文で読んだ。
オトカーさんという人物が出てくる内容で,なんとなく幻想的な感じがした。
これは第一次世界大戦後の世相を書いた作品であるが,
その訳本は入手困難で有名なものであることを大分後から知った。
訳があることは知っていたが,まさかそんな意味で有名な本であることはずっと知らなかった。
どうして高校生相手の英語も読みものに,この作品の一部が選ばれていたのかは解らないが,
なんとなく感傷的な感じがしたし,同じ作者による「ジェニーの肖像」のことも知っていた。
これは小型の英文の本(たしか従兄にもらった)がいまでも書棚のどこかにあるはずである。
しかしとにかく訳本の「いまひとたびの春」(龍口直太郎訳)は
古本屋さんでも手に入らない本として知られるようになっていた。
いつであったか,早稲田の古本屋さんで,店主の背中のガラス戸の中にあったという話を聞いたこともあった。
私としては,まあなくてもいいやという位の気持ちではあったが,機会あるごとに探していたことは事実である。
こんなとき,つい先日のこと,気まぐれでネットでの検索をかけた。
驚いたことには,あるお店の目録に,まごうこことなき「いまひとたびの春」がのっていた。金5000円である。
う〜む,これは高いのか,安いのか。昭和26年発行の第2刷で,当時の定価は150円である。ちょっと迷った。
翌日のこと,お茶のみ場で山本君や池田(直)君と一息ついてダベッていた。
そこで,この本の話をしたら,「ぼくなら絶対に買います」と池田君が強調する。
「お金なんてすぐになくなってしまいます。形として残るものにしておきましょうよ。ぼくなら買います」という。
そうか,こうなったら買わなくちゃあいけないのかなあ。そう思ったとたんに決心した。やっぱり買おうっと。
早速に注文をした。連休前日のことである。注文先の本屋さんもすごい名前であって,なんと「絶望書店」という。
もちろん店舗などは構えていない。思い切ったら動きは速い。私は早速に送金して,
連休明けには本を入手した。なんとも不可思議な気分でページを繰ったのであった。

これで,私が欲しいと思っていた本はまた1冊だけ減った。あと欲しいのはどのくらいあるかって?
実はあとはたった一冊しかないのです。
妙な感慨に襲われてしばらくはぼうっとするしかなかったのであります。(01.05.10)(T.Y)

写真1:ずらっと並んだ「日本大百科全書」。やはりCDよりも便利です。
写真2:40数年を経て,やっと入手した”One More Spring”の和訳本(岩波現代叢書)




                    写真1      クリックすると大きくなります      写真2





2001年05月01日

今年も卒業式となりました



今年の学部卒業式と大学院終了式は3月26日に行われた。
その前年は,残念なことには,学部生のレベルが低くて,私はなんとも情けない卒業式を味わった。
6名の4年生のうちで,2名が留年,1名はお情けの卒論Cでの卒業であるから,
企業で言うならば倒産寸前の状態である。あまりに惨めで,人生に絶望寸前であった。
そんな状態から徐々に立ち直って,ことしは多少とも持ち直すことができた。
博士が二人(金蓮花さん[モアレ法の研究]と松添雄二さん[ロータリエンコーダの研究])出たことも嬉しかった。
修士の高瀬海君(ファイバ歪ゲージの研究)と林大輔君(光アクチュエータの研究)もいろいろと世間的にも話題を呼
んだ。
実は,辛いことには私は年齢的な制約から,もう博士課程の学生を持つことができないのだ。
残念だが,まだ論文博士を狙っている方が3名いるし,お膝元では山本助手が
今年限りでタイムアウトになるぎりぎりで論文を準備している。彼らに頑張ってもらいたい。
4年生諸君もそれなりに頑張ってくれたし,それぞれ個性があって楽しかった。
前年の後遺症があって,完全には立ち直れなかったけれども,また新しい考えからやり直しが始まったのだ。
皆さん,ご苦労様でした。これからもしっかりとやっていきましょう!
(2001.03.26)(T.Y)


卒業式の写真です。みなさん卒業おめでとう!!!(クリックすると大きくなります)



3月には徳永君や小田君も現れました!



研究室の出身者が来てくれるのは大変に嬉しいものである。
3月6日(火)には徳永剛君が来てくれた。
彼が修士課程を終えたのは一体いつであったのか,もう解らなくなってしまったなあ。
えーと,えーと,名簿を広げてみたら1987年に大学院を修了というから,なにもう10年も過ぎてしまったのかあ。
現在は職業能力開発大学校で講師をしている。
旭化成にいた彼を引っこ抜いて,ここを紹介したのは私だし,彼は能力があるのに,
いつまでたっても博士論文を書かないから困ったなあ。
今年中にまとめてくれないと責任とれないからなあ。この次来るときには,論文片手に来てくれるものと信じよう。
3月23日には小田功君が現れた。彼は1994年に卒業して,高橋研究室から私のところにきた。
博士課程までやるというので頑張りに頑張ってもらって4年半でドクターをとった。
現在は木更津高専にいる。日本光学会の文献抄録委員をしているので,研究室の雑誌を見に来たのだ。
ところが私の部屋は雑誌や文献が積みあがっていて,彼はまず部屋の片づけをやる破目になってしまった。
おまけにOptical Engineeringなどは12月号がどうにも見つからない。この瞬間に私は悟ったのだ。
「秘書なしでは絶対にダメな状況に陥っている」と。
OB諸君の効能はすごいのだ。私に片付けを決意させたのであるから。
(2001.03.23)(T.Y)



森洋篤君の来訪



仕事の合間をぬってであろうか,3月8日(木)の午後に,森君(98年3月修士課程修了)が現れた。
仕事は楽しいけれども,大変に忙しそうであったが,それでも元気一杯であった。
たまたま実家に帰る事情があったようで,ついでにちょっと立ち寄ってくれた。うれしいものである。
本当は夕方からちょいと一杯やりたかったのだけれども,彼は車で来ていたし,
私も山本助手も少しお酒をひかえているので,それならばとばかりに北口の「海風」に行って沖縄そばを食べることと
した。
お店のおじさんは男三人連れなので,当然泡盛でもと思ったようだが,この日はご勘弁いただいた。
森君はここの沖縄そばがいたく気に入ったらしく,「うまい,うまい」と喜んでいた。
帰りにすぐそばの99円屋さんに寄ったら,彼はなんとネギを買ったのでびっくりしてしまった。
研究室に戻ってから,記念にと写真を撮っておいたので,ネギを片手ににこやかな森君を見てください。
(2001.03.08)(T.Y)



ネギを片手ににこやかな森君(クリックすると大きくなります)




2001年2月7日


篠田君のお父様が逝去



M1の篠田兼崇(ともたか)君のお父様が1月29日に亡くなられた。
以前からガンと闘っておられたことは聞いていたが,3年半という闘病もむなしかった。
まだ56歳という若さである。
2月3日には告別式があったので,山本助手と共に参加した。
ご自宅は王子であるが,ここはもう40年も行ったことがない。
実は駅近くの歯医者さんで家庭教師をしていたことがあるのだ。
そこがどこであったかはもう思い出せない。
たしか「不二泉」というレストランが途中にあったが,いまでもあるのだろうか?
篠田君のお宅は南北線の王子神谷駅からすぐである。
はじめて南北線に乗った。この線のホームにはドアがあって,線路への転落防止がなされている。
それにワンマンカーであって車掌がいない。きれいな電車でよろしい。↓





この線のホームにはドアがあって,線路への転落防止がなされている。(クリックすると大きくなります)



道は駅からすぐに判った。豪華なマンションが立ち並んでいる一角にお宅があった。
ご葬儀は悲しいものである。
ご遺影から推察するに,大変に立派な方である。
慶応大学時代の御友人からの弔辞は悲しいながらもすばらしい内容であった。いろいろなことを考えた。
弔辞に出てきた「悲しくて悲しくてとてもやりきれない」という唄はサトウハチローの作詞である。
サトウハチローは私の出身中学に在籍していたこともあるという。
退学処分となったのに,同窓会には顔を見せていたという話を聞いたことがある。
私には新しすぎる唄であるので,私はその題さえ知らない。皆さんは知っているのであろうか?
実はこの詩は曲ができた後に,いわゆるはめ込みで作られたという。歌詞を知っていますか?
私も唄は聞いたことがあるが,作詞したときにサトウハチローはなんと61歳であったという。
そんな老人が作った詩に思えるだろうか?たいしたものである。
篠田君のお父様の昭政さんは日本フェルトに勤務されていたという。
そういえば王子には日本フェルトがあったはずだが,と篠田君に聞いてみたら,
それは移転してしまって,その跡地にあの豪華なマンションが建ったのだという。
う〜む,世の中は変わるものである。
時は流れて時代は変わる。後でじっくりと考えたら,10年以上前に一度大蔵省印刷局に行った時,王子で降りたこと
を思い出した。
印刷局は王子の駅前にある。
そして(皆さん知っているだろうか?)そこには小金井に移転する前の農工大があったのだ!!(2001.02.06 T.Y.)



2001年2月6日



小金井に雪降りしきる



今年はいやに雪が多くありませんか?
東京ではこんなに何回も雪が降ることは滅多にないのです。
SPIEのKristiにも「雪が多すぎるよ」とメイルのついでにぼやいたら,
SPIE本部のあるベリンガム(シアトルの北です)では
「今年はどういうわけか雪が少なくて,岩に気をつけてスキーしなければならないし,世界中の気候が狂っているみた
いだわ」と返事がきた。
1月20日と21日はセンター試験だったが,例によって雪となってしまった。
大学の構内も雪が積もって,池の周りは写真のようである。↓







写真1 池の周りの雪景色(2001.01.20 朝)(クリックすると大きくなります)



受験生は辛かったかもしれないなあ。
おまけに1週間後の27日も雪になってしまい,私の愛車などは写真のようにすっかりと雪に覆われてしまった。↓






写真2 雪に覆われた我が愛車(2001.01.27)(クリックすると大きくなります)



おまけにこの日は(土曜日だったが)「計測システム工学」のレポートを出しに来る学生がいるので,私も大学に出か
けた。
自分で論文を見つけて読んで,まとめた上でレポートを書くようにさせた。
レポートは出せばいいというのではないぞ。
5分間説明をしてもらって,5分間は質問に答えなければならない仕組みとなっている。
雪の中をやってきて,質問に答えられずにつき返された学生もいた。
世の中はあまくはないのだ!でもね,こちらも大変なのであるぞ。
1人10分としても80人の履修者がいるからなあ。火曜日の夕方までかけて全員に説明をさせた。こうなったら意地で
ある。
私は雪道での車の運転の仕方を知らないし,チェーンなんてものもないし,付け方も知らない。
しょうがないから土曜日はブーツに履き替えて武蔵小金井からバスで帰宅した。
困ったのは翌日である。実は渋谷の東急百貨店で古本市が始まっていた。
もうろくなものがないのは解ってはいたが,翌日の日曜日には(ほかに靴がないので)朝からブーツを履いて渋谷に
出かけた。
歩きにくいし,都心は雪などが残っていない。
「ズボンをおろしてはけばブーツだって解らないわよ。」と奥様はおっしゃるが,ブーツは疲れるなあ。
そのせいもあってか,掘り出し物はなにもなかった。
ただただ疲れただけの日曜日であった。(2001.02.06) (T.Y.)



2001年1月18日−1



OB4人組現る!



お正月の三日にはOBの4人が研究室に現れた。
森・福島・桑原・杉浦の4人である。
学部で言えば,4人とも平成8年の卒業である。
話によればこのうちの3人は元旦だか二日に那珂川をカヌーで下ったらしい。
なんとも物好きである。いくら行くところがないとはいえ,
冬の寒さの中を川くだりするのだから,呆れるというよりは感心してしまう。
学生のころは4人とも大変に頑張ってくれて,研究室の一時代を築いてくれた。
社会に出た今もそれぞれに活躍しているようなので話が楽しい。
でもお茶室でわいわいやるのは学生時代とかわり映えがしないので,次はもっと優雅にやろうという結論となる。
お茶室といえば杉浦君などは,ここで「R社はどうだ」と(当時就職担当であった)私に言われて,
1分後に「ハイ!」と即答したのであった。
彼の人生のベクトルは,あのときの3分で決まったのである。
人生とはそんなものである。しかしあれからもう・・・・。時の流れははやいなあ。(2001.01.18)(T.Y.)





左から森氏,杉浦氏,桑原氏,福島氏(クリックすると大きくなります)





2001年元旦の吉澤教授(クリックすると大きくなります)




2001年1月18日−2


大昔の教え子と会う



年賀状を見ていたら,懐かしい福岡君の賀状にはメイルアドレスが書かれている。
すぐにメイルを送ったら,これまたすぐに返事が来た。
なにを隠そう,彼を教えたのは40年近くの大昔である。う〜ん,かなり40年に近い昔である。
最後に会ったのがいつであるかも思い出せない。
当時は小学生であった彼も,いまや50歳というから参る。
当時の私は生活に窮し,人生に絶望し,というわけではないが,いささか怪しげな教師をしていた。
「あんな教え方だったのに,みんな偉くなったのだからたいしたものだ」そうである。
彼も千葉大学の機械工学科を卒業してIHIに入社し,海外留学などを経て,いまや銀座にオフィスを構えて社長にな
っているという。
まいったなあ!ン十年ぶりに会ってみようということとなる。
「それなら安田君も誘ってみます」と言う。
彼もまた早稲田大学を出て銀座の4丁目にある某社に勤めていて,
銀座のことなら昼から夜の世界まで,京橋税務署にだって顔が利くという。すご〜い。
でも会ってもお互いに顔がわかるか不安である。
私ももはや歳をとった。
「でもホームページで見る限りは,昔と変わっていません」などとお世辞を言ってくれる。
でも人違いするといけないので,福岡君には研究室まで来てもらった。
安心した!な〜んだ,昔と同じ顔をしてる。
話が尽きないので駅前のドイツ屋さんに行くこととする。
飲みたいのではないぞ,話が尽きないからだ。ここで一杯だけと飲んでいたら,安田君も現れる。
「顔わかるかなあ」と心配だったが,「歩き方を見れば解ります」と福岡君。
やがて入ってきた人物を見たら,な〜んだ,彼も同じような顔をしている。
たちまちにビールがおいしくなる。嬉しい。
それにしてもいつまで続くぬかるみぞ,じゃなくて昔の縁が。
誰に言ったって信じてくれない関係だ。だいいいち話がややこしすぎて説明できない。
福岡君などは「教室はどこにあったんだっけ?」と記憶が定かでなくなっている。
「都電が走っていたでしょうよ。電通院があって,つぎがドウシンチョウだったさ」と安田君は記憶力抜群。
ドウシンチョウって同心町でよかったのかなあ。私も自信がない。
40年前の昔のことだからなあ。うわあ,懐かしい。
今朝医者から「ビールはひかえてください」と言われたばかりなのに。
でもなあ,50歳も過ぎてしまえばもうみんな年齢の差などはない。同じである。
なにを隠そう,私にも過去があるのだ。
でもその秘めたる過去の中から,立派な人物が(この二人以外にも)生まれているのである。
ひたすら懐かしい一時であった。(2001.01.18)(T.Y.)





ビールジョッキを前に,ヒロ福岡君(左)とマサ安田君(右)(T.Y.)(クリックすると大きくなります)




2000年11月24日


金さん,北京での会議から帰国



私がボストンでのPhotonics Eastに出かけている間に,
天津からの留学生・金蓮花さん(D3)は北京での国際会議 “Optical Measurements and NondestructiveTesting”
に出席した。
「中国の国際会議はめちゃくちゃだよ」と脅かしておいたが,「私がよーく言ってなおさせます」などとけなげなことを言
う。
さすがに直前になったら「まだプログラムが届かないんです」と不安そうにいう。
中国の会議では事前にプログラムなんてないのが当たり前である。
会場に行って,その日の朝になってから,はじめて今日は誰が発表するか解るのだ。
それもすぐに変わってしまう。どうなったかなと楽しみにしていたら,20日に大学に戻ってきた。
この会議の途中で,金さんは(現在香港科学技術大学にいる)Huaさん(香港の大学は,従来香港大学と香港中文大
学の2大学であったが,
1988年に第3の大学として香港科学技術大学が創設され,1991年学生の募集が開始されました.)にも会ってきてく
れた。
元気だという。また(私が頼んで)北京理工大学(1940年に創設され、中国で初めて承認された重点大学です。)の
劉広栄さんも訪ねてもらった。
彼も元気で頑張っているという。私は彼へのお土産に,いなげやで買ったお味噌(劉さんの大好物)を持っていっても
らった。
劉さんは金さんに大きな茶器セットを託した。大きいし,壊れやすいしで,金さんは苦労して持って帰ってきてくれた。
とてもすばらしい!有難う!!
金さんは会議ではHung (Oakland Univ.) にも会ったようだが,彼は手抜きで招待講演をしたという。
SPIEからはJitが参加していたらしい。
「Yoshizawaを知ってますか」と聞いたら,「Toru Yoshizawaなら」と答えたという。
金さんの言う風貌からすると,間違いなくJitのようである。「もっとまじめに会議をやらせろよ」とメイルを送ってやろう。
(2000.11.24)(T.Y)



2000年10月23日−2



久しぶりのGuさん



急に電話があって本郷に来ているという。「時間があったら寄ってよ」と言ったら,夕方に研究室に来てくれた。
久しぶりである。Guさん(本名・顧若偉)とは北京で知り合った。
彼の母校の北京理工大学(1940年に創設され、中国で初めて承認された重点大学です。)で講演をしたときに彼か
ら質問が出て,
分野が近かったのでその後の付き合いが始まった。
しばらくしてから訪問研究者として研究室に滞在するようになり,いわゆるワンステップ位相シフトの研究をした。
成果は"Optics and Lasers in Engineering"に発表されて,現在でも時々引用される。
その後,潟Iプトンで三次元測定機の開発にあたっている。優れたソフト開発者である。
とうとう日本に来て8年になったというし,この日は奇しくも日本に来た日でもあるという。
話は尽きなかったが,時間もないので,金さんを誘って,金さんお気に入りのレストランに向かった。
車で行ってみたら駅北口の先にある「華屋与兵衛」であった。店はこぎれいであるが,ちょっと下品なおばさんが多い
し,
子供が(ファミレスだからなあ)走っていたりするのが不愉快であったけど。
店員の態度はいいのに客の質が悪い。私が店員だったら叱るけどなあ。そんなところで金さんを交えていろいろな話
をした。
金さんも日本に来て4年に近いし,最近のなまくら日本人学生より中国人のほうがいいなあ。(2000.10.21)(T.Y)



2000年10月23日−1



卒論の中間発表



恒例となっている卒論の中間発表が9月29日に行われた。私の研究室からは4年生6名が発表をした。
最近の学生のレベルはこんなものなのであろうが,いかにも頼りない。

1)本格的練習ができないままに本番となってしまうなど,本番までの準備計画をしないというか,計画を立てるとい
うことを知らない。
2)全員がそっくりのOHPを作るなどまったく個性がない。なんで自分独自の個性を出したレイアウトにしようとしない
のだろうか。
  しかもそれがまったくセンスがない画面である。
3)発表をするというのに原稿を作らない。その場でのアドリブを繰り返す。
  だから言うことが 練習のたびに違うし,時間がばらばらとなる。
4)自分の発表の時だけしか会場にいないので,
  他の研究室がどんな研究をしているか,また他の人たちがどんな発表態度かが解らない。
5)自分の研究のストーリーを考えない。

その他あれこれといってみてもはじまらない。ばかばかしいからこれ以上書く気もなくなった。
もうやめた!話にならない!!(2000.10.21)  (T.Y)



  2000年8月22日−2



外国人訪問者との交流



SPIEの仕事をしている関係もあって,外国人との交流にも積極的に取り組んできた。
これも勉強のうちであり,また楽しい。

*Russell Chipman
アラバマ大学で偏光の研究に取り組んできたChipmanは,その後大学を離れており,
今回はTeraStorに籍を置く研究者としてビジネスがらみで来日した。
忙しいが,4/21の夕方には時間ができるというので会うこととした。
都内は厭だ,田舎がいいというので,大谷さんや私の妻も含めて一緒に食事をすることとして,高尾にある料亭を準
備した。
久しぶりに会ったが,その日だけで4つの会議をこなしてきたというだけあって,いささか疲れた様子であった。
家族の話を含めて雑談できる友人を持つことは実に楽しい。 (T.Y)





「うかい竹亭」にて



*SPIE会長D. O'Shea および事務局長E. Arthurs
日本を経て中国を訪問するという二人と会うこととなった。
池袋という妙なところに宿泊しているので,会合場所の設定に苦労してしまった。
外国人との食事は日本料理でと決めているので,駅ビル内の料亭を苦心して捜した。
外国人をもてなすのに,(すき焼き屋ならともかく)ステーキを食べさせる方がいるが,どうかと思う。
日本支部として辻内先生と谷田貝先生にも出席していただいて6/6に会合を持った。
SPIEの二人は日本が初めてということであったが,畳にも日本料理にも抵抗はない。
日本支部としての考えなど,いろいろと意見交換を行った。
会議の内容は別として,Eugeneはスコットランドの出身であって,アルコール類は一切たしなまないこと,
またO'Sheaもスコットランドの血を引いていることなどを面白い話題であった。
なお翌日にはO"Sheaが雑誌"O plus E"のインタビューを受けた。
その内容は同誌の9月号に掲載される予定である。
また彼らのアジア訪問はSPIEのWebに出ているので関心ある方はご覧いただきたい。
ちゃんと私に会ったことも出ているからびっくりした。
なお,O'Sheaはジョジア工科大学の教授でもある。(T.Y)





「美濃吉」での会合におけるO'Shea (左)とArthurs



*John Gonglewski
急にメイルが入って,Russelの友達だが日本に行くので会いたいと言ってきた。
返事を出すころには東京についてしまいそうなので,六本木のホテルにファックスで地図などを送った。
東小金井の駅まで向かいに行ってくれと言ったら,みんななんのかんのといって逃げ腰である。
しょうがないから駅の階段の下で待っていたら,紙を見ながら降りてくる外人がいたから,「さてはJohnだな」と簡単
に判った。
やたらに冗談を連発する人物で,車で小金井の狭い通りを大学へと走ったら"Wonderful!"とか"Marvelous!"とか連
発する。
こんな狭くて汚い通りが素晴らしい訳はない。研究室について半日ほど見学をした。
山本君以下の研究室の諸君には「英語で説明せよ!」と突っぱねておいたので,みんな冷汗をかいたようである。
それでもなんとか判ったようだから不思議なものである。
夕方になったので,大谷さんを誘って駅前の「へそまがり」で一杯引っかけた。
ここで判ったのだが,彼は日本語会話集を持ってきていて,これは何というのだとかやたらに訊く。
居酒屋はさながら日本語教室と化してしまったのだった。
Johnはアメリカ空軍の研究所に所属していて,Chipmanとは20歳ころからの古い友達だった。
仕事は大掛かりな光計測であって,ちょっと我々が手を出せるレベルではない。
実はその後にSPIEのSan Diego Meetingに出かけた折にまた何度か出会った。
いくつものセッションで司会を務めていて,かなりの顔役であることを知った。
でも実に気のいい人物で,会って本当に楽しくなってしまった。(T.Y)





研究室を見学中のJohn


*Marshall Weathersby

Johnが来日した理由は幕張での会議に出席するためであった。
これで判ったのだが,この時期は展示会InterOptoが開催されていて,併催で国際会議がある。
「SPIEからMarshallが来るよ」とJohnに言ったら,「彼とは友達だ!」という。
そこでMarshallにも「今日はJohnが研究室に来ているよ」とファックスをホテルに送っておいた。
どこで会おうかと悩んだが,面倒なので幕張の展示場でSPIEのブースで会うこととした。
午前中は研究室での輪講があったので,早めに切り上げて慌てて会場に駆けつけた。
実は昨年のDenverでの会議で,私はMarshallを何回も見かけていた。
ところがその時はSPIE事務局長の選出がからんでいて,彼は微妙な立場にあったので,あえて私は話しかけなかっ
た。
その後にEugeneが事務局長に正式に決まったので,今度は安心して彼に会えることとなった。
ヒゲを生やした大男で,Johnに言わせれば「政治家みたいだ」という。
ちょっと心配したが,会ってみると実にざっくばらんで楽しい人物だった。
ブースに座り込んで話していたら,ニコンのT副社長が立ち寄る,コニカのKカンパニープレジデントが現れるやらで,
その度に紹介しながら話し込んでしまった。
飲みに誘う時間もないので,月末にSan Diegoに行くときにはお酒を持っていくからねと言って別れた。
そして本当に壺に入ったお酒(府中名産である!)をぶら下げて行ったら,ちゃんとこのことを覚えていた。
「約束を守ってくれて,おまえさんはgentleman だねえ」と褒められた。 私はジェントルマンである!!(T.Y)





Breckenridge (左)と談笑するMarshall [San DiegoでのChaptersReceptionにて]




2000年8月22日−1


Dushkinaさん米国へ



昨年から研究室に滞在していたNatalia Dushkina さんがいよいよ米国へと去った。
東大理学部や機械技術研究所などを含めて,これまでで5年間を日本で過ごしてきたことになる。
大変エネルギッシュに日本各地を動き回り,また多くの日本人と友好の輪を拡げてきた方である。
私の研究室での滞在は短かかったが,学生諸君にも私にも大変にいい刺激を与えてくれた。
講演などもしてもらったが,ちょっと残念なことには学生諸君の英語能力がやや低くて,折角の内容が十分には理解
してはもらえなかったようである。
研究室の学生も,絶好のチャンスなので,もっと積極的に英語で話せばいいのに,ほとんど英語を使わない,
というか使おうとしないのはなんとも情けなかった。
8/16には米国へ出発するというので,慌ててお別れパーティも行ったが,なかなかに楽しかった。
このパーティの途中で急に現れた機械システム工学科1年生・今村徹君は巧みな英語で自己紹介するとともに,
Dushkinaさんとも流ちょうに話し合っていたのには感心してしまった。
専門用語は解らないといいながらも,びっくりするほどにうまい話しぶりであった。
彼は日独協会のドイツ語研修に応募したら,最年少で選ばれたという。
まず日本での研修受けてドイツに渡り,現地での研修プログラムが準備されているという。
「これからは3カ国語ができないと駄目でしょうから」と実にたくましい1年生であった。
Dushkinaさんは母国語であるブルガリア語以外に,ロシア語・フランス語・英語とかなりの日本語ができる。
私もリタイアしたら,昔かじったドイツ語とフランス語をやりなおしてみたい。(T.Y)



  2000年7月21日



秋葉原探検隊、本年も無事に帰還



1年生の講義「機械情報工学」の一環としてパソコン組み立てを行っている。
このための準備として7月1日(土)には、部品買い付けのために秋葉原探検隊が繰り出した。
当日秋葉原駅に集合したのは、名誉隊長・吉澤 徹、隊長・山本将之、副隊長・篠田兼崇(M1)、
特別隊員・奥田光一、池田貴宏、高橋博史(以上4年)、隊員・1年生11名であった。
1年生の中には女子学生2名も含まれており、暑さの中、いったいどうなることかと懸念されたが、
皆さんあちこちと歩き回ってパーツを買い集め、全員無事に帰還した次第。若い人は元気だなあ。
1000円くらい高くってもいいじゃないかと思うけれども、そこはそれで問題らしい。
私もつい先ごろヨドバシで6000円で買ったばかりのユニマウスが980円で売られていたのを見つけたときにはショ
ックだった。
慌てて一つは買ったのだが、後日またほしくなって行ったらもう売り切れでこれまたショックだった。
当日買い集めたパーツは、翌週の7月5日の講義の折に山本助手が懇切丁寧な説明とともに組み上げて見せ、1年
生に大きな感銘を与えた。
これは現在研究室で利用されている。
実はもう1台、小型のものも篠田君(昔は海賊大王だったという噂があるが、現在は罪を悔いて堅気の生活を送って
いる)に組んでもらった。
これは私が生涯愛用の予定である(でもマックと違ってちょいと使いにくいなあ)。でもまだ誰かの呪いがかかってい
るとみえて、時々調子が悪くなる。
当日は暑くて、せっかくのデジカメを使う気力もなかったが、マクドナルドでくつろぐ隊員の姿と路上で見掛けた家出
少年の姿を添付する。(T.Y)

 




2000年7月3日


つけめん食べて三次元測定機を見に行く



ドイツから三次元測定機が代理店に輸入され、見にこないかとの連絡があった。
さらばとばかりに、去る6月13日のこと、山本助手とともに見に出かけた。
練馬区桜台という秘境であるから、さてどうやって行ったものやら解らない。
幸いにも近くの練馬から通学してきている高瀬号がいるものだから、なんとか道を教えてもらった。なんでも大江戸線
なる妙な電車に乗ればいいという。
「先生、昼飯はどうしますか?」などと、山本君は食べ物とコンピュータにしか関心がない。
どうせなら、秘境の地で昼食というのもしゃれているではないか、とばかりにあえて桜台へと急ぐ。
初めての土地というものはいつも面白い。まずどこで食事をしていいものやら見当がつかない。
近くに蕎麦屋があったが、これはおいしそうにもない。
「どこかにラーメン屋はないかなあ」というと、「あっちのはるかかなたにつけめんという看板が見えます」と山本君。
そうか、つけめんを謳うのならまずくはなかろうと道を目指す。
見ると雨上がりのせいか、軒下には雨宿りしていたらしい中年の男女がいる。
入ろうとしたら、「あれっ、先生並んでいるんですよ」と山本君。よく見たらもう一人男がいる。
タイミング悪かったかなあ。まあ時間もあるしちょっと並ぶか、すぐに空くさと列に加わる。
桜台まで来て行列とはどうしたことだ。10分ほどして店の中に呼ばれる。
やれやれと思ったら、店の中でも行列である。
なんじゃこれは?こうなったらもう待つのみだ。待つこと10分。
こちらへといって席へ案内されたので、今度はと思っていたら、またまた待たされる。
野菜つけめんを食べるのに、なんで30分も待たなきゃあいけないのかなあ?約束の時間に間に合いそうにもなくな
る。それでもおいしいのが救いだった。
周囲の連中をじっと観察すると、食べ終わった後で「スープください」といいながら、どんぶりを(麺を食べ終わった後
の)皿にのせてうやうやしく差し出している。
そうか、そんな礼儀があったのかと、山本ともども常連客のふりをして「スープください」とやる。
ここの麺つゆはほんのりと甘味がある。それにゆでた麺の湯をいれてもらうとなんとなくおいしい。
う〜ん、これは悪くはない。東小金井南口のエフエフのつけめんは、あっさりしていて550円。
ここの野菜つけめんはこってりしていて750円。なかなかによろしい。
食べ終わると約束の時間寸前であった。これは大変だあとばかりに某社に急ぐ。
間に合ってよかった!遅刻したら、「つけめん食べてて遅れました」って言い訳しなくちゃならなかったもの。
ところで三次元測定機はどうだったか、って?ちょっと書く時間が不足した。
そのうちまた書きます。行列している山本助手の写真を見てください。(T.Y)

 




2000年7月3日


原稿がまた仕上がった!



1ヶ月間締切を延ばしてもらっていた原稿が仕上がった。
他の原稿と同時に依頼されていたのだから無理ではあったが,とにかく今は授業が多すぎるのだ。
1年生に基礎ゼミなるものまできたせいで,その他の講義2つと研究室の輪講を含めると毎日毎日講義である。
まるで小学校並である。そこを無理して書くのだから,我ながら偉いものである。
輪講の資料作りにアップアップしている研究室の学生はだらしがないなあ。(T.Y)





2000年5月26日


解説記事が続々と



昨年はあまり解説記事を書かなかったのだが,大谷研究室も独立したので,気分転換にも依頼原稿は受けて立とう
と考えた。
ホームぺージのPublication 中の「解説」にあるように,「画像ラボ」4月号に山本君とパターン投影法について,
また「計測自動制御学会誌・計測と制御」4月号にはヒトの三次元計測について書いた。
「O plus E」5月号には大谷さんが頑張って局所サンプリングについての詳しい記事を書いた。
実はこの次には5月末締切で原稿が控えている。さらに6月末締切もある。
調子に乗ってなんでも書くよなどと言っていたら,来年の1月号の記事依頼までが入って来たのにはまいった。
どうなるのでしょうか!?(T.Y)





2000年5月23日


福島健一君が来訪



去る5月19日の午後,OBの福島君が突如現れた。
ジャージ姿でなかったので,一瞬誰だか解らなかったが,よく見たらニコニコした「群馬の福島君」であった。
私も午前中に光工学の講義を了えて,ちょっと一息ついていたところであったし,
例によっての福島ムードであったので嬉しくなってしまった。
現在はエレベータの箱の設計関係をやっているらしい。
光ロボットとはあまりにも違う世界であるが,何をやってもこなせるところがいい。
私が「2台目の折畳み自転車を買ったよ!」(1台目は彼に組み立ててもらったのだ。まずは廊下で試走したのには
呆れたが)というと,
「僕なんかはもう自転車は卒業して,今はカヌーに凝っています」などと生意気を言う。
同期の森君やM研究室・高橋君らと相変わらずつるんでいるらしい。カムチャツカにも言ってきたという。
金蓮花さんと久しぶりに会って感激した面持ちであった。
まだちょっと明るかったが,冷蔵庫に冷やしておいたビールを出したら,「待っていたんですよ」。
研究室の院生や4年生も加わってテラスでビアパーティになった。
相変わらず言うことが面白いし,とても楽しい一時であった。これからも頑張ってほしい。(T.Y)(マウスオンで写真が
変わります.)

 




2000年4月5日


山本将之君,助手になる



昨年の3月に博士後期を修了していた 山本将之君が4月1日付けで助手になった。
彼はちょっと変わった経歴である。
聞くところによると,石川県の能登半島のどこかの町の出身だそうである。
あの辺りの地名はややこしくて読めないし,とても覚えられないので勘弁して欲しい。
その後,富山大学生産機械工学科へ特別入学した(裏口入学では絶対にない!)。
卒業後には大学院に進学し,修士課程を了えたが,その頃に所属していた研究室の先生が田代君である。
田代君などと気安く呼ぶのは,かつて私のところに勤務していたからであって,いまや富山大学助教授に出世してい
る。(下記1999年11月4日を参照)
さて,どういう事情があったのかは知らないが,山本君はパソコンにのめり込んでいったようである。
そして,吉澤研究室の名声を慕ってはるばる東京へと上ってきたのであろう。
この後3年を経て,無事にさっさとドクターを取ればいいものを,
ちゃんと論文はいくつかあるのにもかかわらず,博士論文としてまとめないのだから困ったものである。
それではしょうがない。きっと今年中にはまとめあげて,晴れて博士となるであろう。
早くしてくれよ!親不孝者め!!じゃあ去年は何をしていたかって?半年は運輸省関係の研究所に務めていた。
そして残りの半年はう〜ん,何していたのかなあ?とにかく1年以内にドクターを取ることだ。
そしたら,あとの1年はお礼奉公をしてもらう。そのあとの彼の人生?それは決まっていない。
今月号の雑誌「画像ラボ」には,私と一緒に書いたパターン投影法に関する解説記事が載っています。読んでくださ
い!!(T.Y)


2000年3月24日


修士ニ年生,学部四年生 卒業



平成11年度の卒業式と修了式とが行われた。
なんとも寂しいことには,当研究室からは修士1名と4年生4名がこの日のゴールにたどり着いただけであった。
しかも,卒業生の1名は文字通りのお情け卒業であり,こんな最低の学生が卒業することを私は恥じるのみである。
社会の厳しさを受けることによって,本当に卒業の資格があるかないかが判るであろう。
その他のものたちは,よく頑張ったと思う。
研究とはどういうことなのかをきっと理解してくれたと信じたい。(T.Y)(マウスオンで写真が変わります.)

 




2000年3月22日


精密工学会で6件の発表



東京電機大学で開催された精密工学会春季大会で,当研究室から次のような6件発表が行われた。
4年生の3名の発表はいささか冒険であったが,それぞれにいい内容であったのであえて発表を行った。
初めての経験であるからさすがにぎこちなくはあったが,3名とも立派にこなしていたのは嬉しかった。
こうやって発表した内容をみると,(いささか手前みそではあるが)我が研究室は研究の第一線にあるなあと嬉しくな
る。
修士の山谷君の成果はシチズン時計株式会社との共同研究であり,これまでに手がけてきた三次元形状計測シス
テムの第4世代を目指すものである。(T.Y)

〜発表題目一覧〜
°金 蓮花,大谷 幸利,吉澤 徹:格子周波数走査によるモアレ計測(第1報)
°山谷 謙,山本 将之,藤田 宏夫(シチズン),勝呂 彰(シチズン),諸川 滋(シチズン),大谷 幸利,吉澤 徹:
  ストライプ型液晶格子を用いた格子パターン投影法(第3報)ー格子作成結果と計測例ー
°高瀬 海,大谷 幸利,吉澤 徹:
  光ファイバを用いたストレインゲージの開発(第3報)ー曲面反射ミラーによる光強度変化の検出を利用したひずみ
計測ー
°篠田 兼崇,大谷 幸利,吉澤 徹:ユニアクシスレンジファインダ(第1報)ー投影パターンのコントラスト検出ー
°池田 充宏,大谷 幸利,吉澤 徹:液面基準斜入射干渉計(第1報)
°山口 高功,山本 将之,大谷 幸利,吉澤 徹:モアレパターン投影方式3次元計測

概要はこちらを参照してください.




2000年2月10日



修士ニ年生,修士論文を学内発表



今年度の修士論文発表が2月10日に行われ,本研究室の山谷謙君の論文「液晶格子パターン投影による三次元形
状計測」が無事審査をパスした。
今年度修了する修士課程の学生数は学科では60名を越えており,大学の体制も次第に学部よりは大学院へと重点
が移されてつつある。
ちょっと残念であったのは,今年は我々のところには山谷君1名しかいなかったことである。
しかし彼は頑張ってくれて,パターン投影法の実用を意識した研究として,液晶パターンの投影に関して優れた成果
を挙げてくれたのは嬉しい。
従来の液晶法では,実は正弦強度分布を持つ格子を作成することは困難であった。
そのためにシチズン時計のご協力を得て,新たなストライプ型の液晶を利用するとともに,特殊な駆動方式によって
諧調を高めることに成功した。
その結果,格子のピッチは電気的に変更でき,また位相シフトも簡単に行えることとなった。
うまくいけば現在のデジカメのように,携帯型の三次元測定機あるいは三次元カメラが実現できるかもしれないと期
待されている。(T.Y) (マウスオンで写真が変わります.)

 

写真.修士論文発表当日の山谷氏の様子


1999年11月4日


富山大学・田代助教授が研究室訪問.



「田代助教授」などというと堅苦しく聞こえるが,彼はもう20年も前に私の研究室に勤めていた「田代君」である。
OBの中にも,彼に面倒を見てもらったものが多いと思う。
とくに研究室の立ち上げの時期であっただけに,大変な負担をかけてしまった。
その後,母校に戻って助教授になり,光計測を中心に活躍していることは嬉しいかぎりである。
もっと頻繁に意見の交換をしたいと思ってはいるのだが,私にこれまで余裕がなさ過ぎた。
ちょっと反省して,協同戦線を張りたいものである。(T.Y)

 
 

写真.田代助教授の研究室訪問風景


1999年10月31日


Peter Hallさん,久しぶりに来日.



レンズ設計のコンサルタントをしているホールさん(英国)が久しぶりに来日した。
知日家のホールさんには日本での友人も多くて,その人柄からも実に楽しい方である。
ただしやたらに英語での冗談を飛ばすので,うっかりすると解らないことがある。
今回も仕事がメインであったので,会えたのは帰国する日の前日という慌ただしさであった。
小金井まで来てもらって,三千院で精進料理での昼食をとった。
ここは尼寺であるが,以前の方が良かった気がするのがちょっと残念であった。
この後は大谷君の運転で川越まで車を飛ばして,慌ただしく蔵通りを見物したが,ちょっと時間が足りなかったなあ。
ゆうがたはまた小金井に戻ってきたが,日曜日で「へそ曲がり」が開いていないのが悔やまれた。
しょうがないから「飛騨高山」で飲んだのだけれども,う〜ん,ちょっと物足りなかったなあ。
今度はどこかいいところを見つけておこう。
なおホールさんの書かれた記事が,暮に出た“O plus E”99年12月号に掲載されているので是非読んでみてくださ
い。
英国のKidgerOpticsについての話ですが,大変に面白いです。
ただ,私がKidgerのfirst nameを間違ってしまったのはまずかったなあ。(T.Y)



1999年10月23日


創立50周年式典が行われる.



本学も新制大学になってから今年で50年になるという。
これを記念しての式典が10月21日に府中の森・芸術劇場で挙行された。
当日は朝10時30分の開会の辞より始まり,文部次官・佐藤禎一氏の記念講演を含めて,午後の祝賀会へと続い
た。
来賓には一橋大学・石学長,電通大・有山学長をはじめとして,小金井市長や姉妹校の学長などの姿があった。
卒業生も多く(さすがに年配の方が多かった),大学創立の頃の話を含めて,私などはまったく知らなかった事実が
紹介されたりした。
90歳になられるという某名誉教授も元気に参加しておられ,機械工学科関係では田中宗信先生の元気なお顔が見
られた。
私は,姉妹校である上海理工大学の陳康民学長と元・副学長の周鵬飛先生の接待係となってしまったので,午後
の祝賀会ではビ−ルも飲めず,また梶井学長への表敬訪問に立ち会うなど,ややこしいことばかりで疲れきってしま
った。周先生は本学に2年間滞在していたことがあり,またご子息も本学の電子工学科を卒業している。
いつものことながら,中国の方とのお付き合いは疲れるものです。
研究室の留学生・金蓮花さん(D3)にも手伝ってもらったが,彼女はもうすっかりと日本人になってしまって?いるの
で,私と同様に疲れてしまっていたようである。(T.Y.)



1999年10月15日


サアリネン氏が研究室を訪問.



フィンランドのヘプタゴン社(Heptagon Oy, Finland )社長であるサアリネン氏( Dr. Jyrki Saarinen )が研究室を訪れ
た.
同氏は昨年まではヘルシンキ工科大学教授をされていたが,産学協同事業として企業に移られた。
同社の主製品は,現在のところ回折光学素子であって,各種のグレイティングやパターン投影用の素子を設計製作
している.
樹脂やガラスだけではなくて,金属製のコンポーネントの作製も可能であるという.
今回の来日の主目的は大阪におけるビジネス会議であり,また日本におけるエイジェント探しの目的もあるそうであ
る.
実は同氏は1995年には大阪大学に3ヶ月滞在した経験があり,その後も2度ほど(筑波での日本フィンランド会議
などで)来日している.
偶然にも(最近研究室に参加した)ドゥシュキナさんとも筑波での会議で会ったことがあるそうである.
本年の1月にはフィンランドでの国際会議があり,谷田貝先生(筑波大学)らとともに組織委員会に加わっていた.
ただ残念なことには,この会議はセンター試験の直後であって,私たちは参加ができなかった.
「オーロラが見られるのに」という谷田貝先生のお誘いであったが,惜しいことには会議の期間中にはオーロラは見ら
れなかったそうである.(T.Y)



写真.ドゥシキナさんとともに
研究室の見学は,室内が整理中であるためにごたごたした中で,大谷さんを案内役に行ったが,今回は大学院生に
10分間の英語での説明を割り振った.
このために,一部には恐慌をきたした情けない学生もいたようである。
その点では金さんはさすがに立派で,巧みな英語を操っていた.
中国であるならば,こんな時にはみんなが我も我もと説明したがるそうなのに,我が研究室の諸君はいささか心許な
いような気もした.
国際化の時代です。皆さん,頑張りましょう!(T.Y.)



1999年10月10日


高柳淳夫さん( 梅田研究室 )が結婚.



梅田研の文部技官として頑張っている高柳さんが10月11日に結婚された。
お相手は右子さんとおっしゃり,音楽大学でフル−トを学ばれた方である。
披露宴は泉岳寺の近くにある「ホテル東京」で行われたが,(当然のことながら)音楽の演奏も多くて,大谷さんが一
番楽しんだのではなかろうか。
このホテルはちょっと変わったたたずまいだし,会場のレストランも面白い構造になっていた。
ところで,披露宴は無事に済んだが,実はその一月前?程であったろうか,高柳さんは野球の試合中に足を骨折す
るというアクシデントに見舞われた。
退院後も松葉づえの状態であったために大分心配をしたがどうやら順調に回復しているようである。
さて当日は雨の予想が外れて晴天となったので,早めに会場に着いた私はついでに泉岳寺の境内を巡ってみた。一
言でいえばささやかなお寺であるが,この辺りにはあまり来る機会がないのでぶらぶらするのは楽しいものである。
ただ,調子にのって(やや変わった味のする)ワインをいささか飲みすぎたのは(毎度毎度のことながら)反省させら
れた次第。
ほんのちょっと飲みすぎただけなのに,回復に時間のかかる年齢になってしまったことが口惜しいなあ。(1999.10.15
 T.Y.)



1999年10月01日


吉澤研究室に研究者のドゥシキナさんが加わる.



ブルガリア出身のナタリア ドゥシキナ (Natalia Dushkina)さんが我が研究室に加わりました.
以前より来るという噂はありましたが,10月になって研究室に加わりました.
教授,曰く「彼女は多くの国の言葉を話すから,今後研究室では英語が標準語だなぁ.」とおっしゃっていて熱心な研
究室の学生を震え上がらせています.
でも,英語で話すことで国際的な研究室になることは間違いない(?)ですね...



写真.ドゥシキナさんとアドバイザー&修士学生
ドゥシキナさんはブルガリア語,ロシア語,フランス語,英語,日本語少々など,なじみの深い葉から聞いたことのな
い言葉まで話すらしく,研究室ではほとんどが英語です.
でも,英語に 慣れることはいいことでしょう.
ただ,学部生は未だにオドオドしているのでこの先心配ですねぇ...
彼女は研究室で複屈折測定の研究を行いますが,教授の話を聞いた限りではどのくらいの能力を持っているのか今
は謎です.これからいろいろ話して聞いてみましょう.(K.Y)



1999年09月30日


仙台の学会から帰って



仙台で精密工学会があった。
研究室からも4件の発表をしたので,私も大谷さんとともに出席した。
実は9/27には学部生の卒論の中間発表があったので,こちらは研究室の発表を午前中に組んでもらって午後から
仙台に出掛けた。中間発表での4年生のプレゼンテイションはひどいというか勉強不足というか(初めてだからとか慣
れていないとかいう事情を含めても)なかなかに私をはらはらさせてくれる。
それに比べると学会での大学院生の発表は(緊張はするが)「どんな反応があるかな」と楽しんで聴いていられる。
いずれもが評判がよかったし,とくにM1の二人の発表(従来の研究室の研究とはやや離れたトピックスの研究)には
多くの関心が寄せられたのは嬉しかった。
まあ研究の話は別として,仙台の町をぶらつくのも楽しいものである。
今回はすぐに帰京してしまったから,ほとんど町を歩けなかったが,一番町の方にある東北大学近くの古本屋には立
ち寄ってみた。
数冊を買うには買ったが,さびれてしまったお店もあって切ないものもある。
これに比べると(工学部のある)青葉城の方で見つけた尚古堂は地下から3階まであって立派な構えである。
これは以前街の中にあった尚古堂なのではなかろうかと思いながら店内を見て回ったけれども,品ぞろえが私の好
みではなくて,買いたくなる本があまりなかったのが口惜しかった。
帰りには「おいしいかな?」と期待していた蕎麦屋さんに入ったのに(佇まいはいいにもかかわらず),ここのおそばは
まるでうどんを細くしたような味でがっくりしてしまった。
仙台の蕎麦というのは,みんなあんな風なのだろうか?街は以前に比べるとずっとキレイになってはいたが,別の意
味ではそれだけ情緒が失われており,東京みたいになってしまったのが残念だったなあ。
東京では郵便局にも行けないままに滞っていた支払いを,仙台の郵便局から送金するなど,ちょっぴり日常生活を引
きずってしまった。でもいい息抜きにはなりました。( T. Y. )



1999年09月30日


研究室その日その日



山谷君(M2)の仕事を投げ捨てて?の献身的な努力のお蔭で,ホ−ムペ−ジが段々と充実してくる。
今朝も「とにかくまずこの仕事から始めてくれ」とばかりに,いくつかの項目の新設を依頼した。
「厭です」などという顔をしないところが彼の偉さである。
この「研究室その日その日」もそうした項目の一つで,気が向いたときに気が向いたことを書いていく予定でいる。
独り言のつもりで書いていくので,面白くないという人もいるだろうが,なにか感じたことがあったら掲示板( Visitor's
Comment )にでも書き込んでおいてください。(T. Y.)

偉さですかぁ....そんなに偉くはないのですが,最近はこれほどまでにホームページを変えるとは思わなかったた
め,四苦八苦している...
ただ,こんなに変えたところで今後,後輩たちが修正できるかどうか...まぁ,そんなことはどうでもいいか.
ただ,最近では教授が「最近ねぇ,ホームページがいろいろ追加されていくのが楽しみでねぇ.」と言いながら僕に”
早くやってくれ”と言う意味を含めて話す.
これが結構大変なことに教授は気づいていないようです.
まぁ,多少は勉強にもなるし,結果オーライと言う感じです..(K.Y)


1999年09月11日




祝賀パーティ開かる!
吉澤教授がSPIEのFellowに選出!そして,大谷助手が助教授に昇進!
大谷さんの助教授昇任と吉澤先生のSPIE Fellow選出祝うパーティが開催された。大谷さんを直接に知っている卒業
生を中心としたために,最近の10年間の卒業生に案内状を送った。連絡先が不明となっている方も多くて,返送さ
れて来た案内状もあった。卒業生以外にも,現在研究上でお世話になっている企業の皆様5名も参加してくださった
ので,合計29名が集まって久しぶりに旧交を温めたり,先輩後輩間の交流を楽しむことができた。会場となった
Bonn Bon's Strasseは7年ほど前に開店したドイツ料理の お店である。東小金井にはいささか不似合いなお店なの
に,これまでつぶれないで来たことには吉澤・大谷の二人の貢献もあるようだ。 実は15,6名分ほども入れば満員
のお店なので,椅子はみな外に持ち出して無理矢理に入ってみたが,熱気でエアコンは効かないし,身動きもまま
ならないので,結局一部の者は店外に(ということは道路にはみ出して)ジョッキ片手に騒ぐ始末となってしまった。

 1.参加者
氏名(卒業年度)

徳永 剛(1988)
藤沢一郎・小松原良平(1989)
芥田朋和・大久保賢勉・ 三好朋弘(1991)
島田卓也(1992)
小田悦弘(1993)
田中康司・小田 功(1994)
沈 福辛(1995)
杉浦 昇・森 洋篤・福島健一(1996)
遠藤定臣・小寺 豊(1997)
板谷将治(1998)
山本将之(1999→Adviserとして在籍)
金蓮花(Doctor2)・松添雄二(社会人Doctor)・山谷 謙(Master2)(1999現在,現役)
小田島二郎(テクノアーツ研究所)
小林富美 男 (富士写真光機)
藤田宏夫(シチズン時計)
石原満弘(高岳製作所)
藤原久利(山武)
大谷幸利
吉澤 徹


2.参加できなかった卒業生からのメッセージ
中島俊之(1992)

先日祝賀パーティのご案内をいただきました。ありがとうございました。このたびは吉澤研にすばらしいできごとがあ
ったことを心よりお喜び申し上げます。さて、祝賀パーティですが、残念ながら仕事の都合により欠席させていただき
ます。ひさしぶりに吉澤先生、大谷さんにお会いしたかったのですが、とても残念です。お二方にどうぞよろしくお伝え
下さい。また、最近は国内、海外あちこちに行かされてて、貧乏ひまなしである、ともお伝え下さい。今後のヨシケン
のますますの発展を祈念します。以上

綿貫幸仁(1992)

元吉澤研です。吉澤教授のSPIE Fellow選出および大谷さんの助教授昇任を祝うパーティへのご案内を頂きありがと
うございました。また、ご返事が遅れ大変失礼しました。祝賀パーティへの参加ですが、残念ながら当日は仕事上の
都合がつかず、欠席とさせていただきたくよろしくお願い致します。また、今回の吉澤教授のSPIE Fellow選出、大谷
助教授の昇任を心からお祝い申しあげるとともに、今後のご活躍をお祈りいたします。最後に、現在の所属、現住所
が大学から発行されている名簿から変更になっておりますのでご連絡します。

棚橋昌史(1993)

ご無沙汰しております.大谷先生,今回のご昇任誠におめでとうございます.心よりお祝い申し上げます.お招き大
変有り難く,参加したかったのですが,残念ながら帰国の目途が立ちません.当日はこちらアメリカより,お祝いさせ
て頂きます.長い間,連絡も差し上げられず申し訳ございませんでした.小職もこちらカルフォルニアに赴任してから,
1年が経ちました.いまだ足元が安定しない状態ですが,何とか奮闘しております.学会等で再度カルフォルニアへ
いらっしゃるときは,是非ご連絡して下さい.ますますのご活躍こころより祈願しております.

岩崎年伸(1995)

お久しぶりです。祝賀パーティーは残念ながら欠席させてください。このような お誘いをいただき、うれしく思います。
またホーム ページにて現在のみなさんの活躍を 知り、懐かしく、うれしく思いました。現在は、群馬県の県立高校で
自動車に関することを、 教えて?います。学生当時からは想像もつかないような職で、日々一喜一憂と言ったところ
でしょうか。吉沢先生、大谷先生によろしくお伝えください。

小川博士(?)

吉澤研究室各位殿大学卒業後、早10年近くが経ち、なつかしい御名前を拝見致しました。大谷さんが助教授に昇
任された由、誠におめでとうございます。また、吉澤教授が「SPIE FELLOW」に選出された由、良く判りませんが、良
かったですね。残念ながら、生憎ベトナムへ出張予定であり、参加出来ません。農工大では異色の商社に入り、ア
ジアを中心に政府開発援助案件等の仕事をやっていますが、「異色な」業界故、吉澤研究室で学んだことは、現時
点では、全く役に立っていないのが残念です。基本的には足し算・引き算の世界ですので、学術的な知的能力は差
ほどでなくとも、センスと体力で業界を歩いていける面があります。それでも、英語の文献をひっくり返しながら、卒業
研究のテーマと格闘することによって鍛えた「知的体力」は、文系の人たちより抜きんでいることは間違いないようで
す。商社にいる限り、将来、皆様のどなたかと、どこかの国でお会いし、一緒に仕事をする可能性は皆無ではありま
せんので、何かの機会にお会い出来ればと存じます。(研究者や技術者の方と仕事をする機会は結構あります)

篠原則子(1993)

おめでとうございます。申し訳ありませんが欠席いたします。皆様によろしくお伝え下さい。

藤原 基(1991)

まことに残念ながら欠席させて頂きます。吉澤研究室のますますのご発展と皆さまの御活躍をお祈り致します。95
〜97と米国シアトルにボ−イング747プロジェクトで駐在していました。これも皆様のおかげだと思っております。

○参加しなかった方からのメッセージ,うれしいものですね!

3.感想(吉澤)
参加してくださった皆さん,まず有り難うございます。おかげで楽しく過ごせました。また今回は参加されなかった皆さ
んも,次の機会には顔をみせてください。私が農工大に赴任してきたのは1978年でしたから,もう20年が過ぎてし
まいました。SPIE Fellowは,研究室に在籍していた諸君の成果を学会に報告してきたおかげであって,とくに最近は
研究面では大谷さんに負担をかけてきました。ですから,大谷さんの助教授昇進は本当にうれしいことです。 大学の
人事には難しいことが多くて,いくら優秀な方がいても新しいポジションを作ることはできません。席が空かない限り
昇進できません。今回機械情報工学の席が新設され,大谷さんが選ばれたことは本当にラッキーでした。大谷さんも
長年の努力が報われましたし,また一緒に頑張った研究室の諸君のおかげでもあります。さらにまた実際的な応用
の立場からいろいろと教えてくださる企業の皆様との共同作業のおかげでもあります。私が外国の学会と関係を持
つようになったのは40歳を過ぎてからでしたし,英語での論文の重要性を感じ始めたのもそのころです。さらに(言い
にくいのですが)大学での授業がいかにあるべきかを強く意識して,私なりのやり方をするようになったのは6,7年
前からです。とにかく努力していくしかありません。受験生の頃に覚えた言葉に"He is not what he used to be."
(彼は昔の彼ならず)という表現があります。

「あの頃よりもすっかり進歩したなあ」という意味でのこの言葉がお互いの身に当てはまるように頑張りましょう!

 


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