卒業生は今 (Old members,now)
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■鈴木喜義君を追悼する(2016年3月)
  3月20日朝にお嬢さんから電話があって 前夜に鈴木君が他界したという。長い間体
調がよくなかっことは知ってはいたものの さすがに信じがたかった。今にして思えば
無理にでも会っておきたかったが 友人知人そして私も 彼がどんな気持ちであったか
は推測できたし 彼自身も自分の立場と状況を理解していたであろうことから 皆が静
かに彼とお付合いしていた。急いでお悔やみの手紙を差しあげたので ここに載せるこ
ととしたい。彼の冥福を祈るのみである。  お悔みの手紙   k suzuki.pdf
        
■研究室OB会,甲府にて開催(2014/07/12)
  東京農工大学で博士課程の学生として私の研究室に所属していた金さんが偶然にも山梨大学での私の席を引き
ついてくれた。実際に私が使っていた机を利用してくれている。あのアズキ色の机は(当時はオフィス机はグレイばか
りだったので私が塗り替えたのだ)そんな縁もあって,今回は甲府でOB会が開催された。三上君と矢崎君が幹事役を
果たしてくれたので私を含めて19名が集まることとなった。もっとも嬉しかったのは,お世話になりながらお礼もろくに
言わないで過ごしてきた技官の藤原さんが出席してくれたことである。しばらく前に入院騒ぎがあったとうけれども,
そんなことを感じさせずにお元気であった。市議会議員になった者,社長を務め上げた者,まだまだ現役で活躍して
いる者,皆さん元気に過ごしていることが嬉しい。10年間の山梨大学での生活であったが,人生の密度は濃かった
なあ。私も若かった頃の毎日を思い出すとなんだか胸にこみ上げるものがあって,感慨無量になってしまった。

  

           皆さん,長老から最年少58歳の昔の若者まで,誰であるか,全員が解りますか?


■研究室OB会!40数年ぶりに会った卒業生もいた(2013/05/25)
 なかなか実現しなかったOB会が山階君,三上君の努力によってようやく開催された。会場を横浜駅に隣接した  
 ジョイナスに設定してくれたので,私には楽であったし何回か来たことがあるお店であった。最長老となった栗本君
 とは,一体何年ぶりで会ったのであろうか。40年は過ぎているからほぼ半世紀ぶりに会ったこととなる。でも全員と
 も誰であるかがすぐに解ったし,みな昔の面影をとどめていた。3月に開催の通知があって,まだ先だなあと思って
 いたのに,5月が近づくとわくわくと楽しみになった。定刻の30分前に行って皆を迎えようと思って出かけたら,すで
 に先に到着しているOBもいて,これは話が尽きなくなるなあと思われた。でも二人の幹事の巧みなアレンジによっ
 て,昼間からおいしいお酒を飲みながら,思い出話や近況報告で2時間半はあっという間に過ぎてしまった。もう次
 の会が楽しみになってきている。

    

        卒業生諸君と。 誰が誰だか解りますか?

■しばらくぶりに会いましょう(2013.03.20)
  5月には久しぶりに皆さんと会うことができそうです。幹事役の二人が頑張ってアレンジ してくれています。

■悲報:46年卒 田中義雄君が他界(2012/01/25)  
  悲しい知らせが届いた。まさかのことであったが田中義雄君が平成21年4月に亡くなっていた。お父様は浜松市
  議会議長を務められた方であったし,お嬢様からの葉書を読み,まさか田中君自身のことだとは思わず,何だか
  混乱してしまった。慌ててお電話をして,まさかの悲報の内容が理解できた。しばらく前から体調を崩していたと 
  はいえなんとも痛恨の極みであった。

■水ノ江君と会う(2010/12/26)
  世の中ニは不思議な縁というものがあり,ずっと以前に私は譚さんと北京であった。その後に譚さんは東大大学院
  で学び,某社に勤務した。ホログラフィックメモリに関連して素晴らしい成果を挙げて,現在はS社にて活躍してい
  る。そのことは知っていたが,まさか北京でのPhotonics Asia 会議で声を掛けられようとは思ってもみなかった。
  17年ぶりだそうである。その譚さんがいた某社に水ノ江君がN社から移ってきたのである。簡単に言えばそんなこ
  とから三人で会おうということとなり,この日に品川で会った。ただ,暮れの金曜日とあってあまるいいお店が見つ
  からなかったこよは残念であった。でも楽しく会えたことはそんなこpと以上にずっと,ずっと楽しいものであった。
  2人ともさらに活躍してほしいものである。

■数乗君が退職(2010/02/25)
 メイルが来たと思ったら退職の挨拶であった。ずっとファックスやプリンタなどの端末関連の開発から営業までに携
 わってきた彼が退職する年齢なったのかと感慨が深い。スポーツマンであったから,これからも楽しみながらの定 
 年後の生活を送っていくことを期待したい。

■乾君が退職(2009/06/14)
 偶然なことにはP社でファックス開発など従ってきた乾君が退職したという頼りがあった。彼が卒業研究で撮ってく 
 れた髪の毛などの回折像写真は,いまもって私の大切な研究資料であって,3月に刊行したHandbook of Optical
  Metrology (Taylor & Francis, US) にも使わせてもらった。80歳まではまだまだたっぷりあるから頑張るとのことで
 大変に頼もしい。私は80歳までにはまだ数年があるけれども,よし,頑張ってやろうと,とんでもない決意をした次 
 第。梨大OB の皆さん,乾君に負けずに頑張りましょう!

■数乗君を訪問(2009/05/27)
 N社にてファックスなどの開発に当たってきた数乗君から,新たなスキャナを見ないかとの誘いを受けたので喜んで
 訪問した。単なるスキャナではなくて,多波長での読み取りが可能となっている。どなたかこうした製品に興味があ
 れば彼にコンタクトしてはいかがであろうか。あまり詳細を書くわけにもいかないので,これだけにする。彼は相変 
 わらずのテニスと,またゴルフで大変に元気であった。私は大学時代まで常磐線沿線に住んでいたのだが,天王 
 台という駅には初めて降り立った。ここは手賀沼にも近くて,中学高校時代の友人であったK君が我孫子に住んで
 いたので,別な意味でも懐かしかった。山梨大学の卒業生諸君も,それぞれに社会で活躍していることが嬉しい。
 懐かしいなあ。

山梨大へ行く (2007/10/26)
 関東経済産業局のプロジェクトに関っているので甲府に行った。この辺りは市の名前がすっかりと変わっていて,
 行った先は中央市である。といっても,どこだか判りません。昔の田富と玉穂です。隣は南アルプス市となって
 いる。さっぱり解らない。ここでの打合せがが終ったので,一緒にプロジェクトに参加している米村先生に送っても
 らって帰ることとなった。しかし時間があるので,久しぶりに大学へ行き,最近売り出したという「山梨大学ワイン」
 をお土産に買うこととした。駅の北口はすっかり変わっていて,スーパー岡島は無くなっていた」。それでも記憶に
 残っているお店がいくつかあった。武田神社に向かう道沿いには,不思議なことには予備校がいくつもできていて,
 中にはホテルかと思うほどに立派な建物のの予備校もある。大学も少しずつ変わっていて,構内にはローソンが
 できていた。工業会の建物に連れて行ってもらって,噂の「山梨大学ワイン」をもとめた。山梨のぶどうだから,
 やはり白が中心になるけれども,私はあえて赤を買い,別に送ってもらうことにもした。
 家に帰ったら,なんだかちょっと飲みたくなって封を切ったら,やはりたちまちに1本が空いてしまった。お値段の割 
 にはまあまあの味であった。皆さんも是非試してください。それからね,米村さんの実験室もちゃんと見せてもらって
 きましたからね。でも米村さんも来年の3月には停年で大学を去るそうです。時は過ぎます。
 
        

小俣博君,藤原義久君が転勤(2006/06/17)
 山梨大学卒業の諸君も年齢とともに社会的な地位も高くなってくる。企業でも新年度となったことから,昭和45年に
学部を卒業した2人が転勤になった。個人情報に関するのでここでは記さず,研究室卒の皆さんの名簿上で修正しま
す。責任ある地位なので,2人にはさらに活躍していただきたい。

講演会で永寿君と会う(2006/05/22)
 オプトメカトロニクスの研修会が始まった。いつの頃からだろうか,初日の「オプトメカトロニクス産業」を担当するよう
になった。私の前には「機械産業」に関する話があって,最近はこれを永寿君が担当している。そのおかげで毎年こ
の時期になると彼と会うことができる。といってもすれ違いである。それでも会えることは嬉しい。私は準備する時間
がなくて,今朝も5時に起きてスライドをチェックする始末であった。でも出席の皆さん151名(と当日参加の数名)は
とても熱心に聴いてくれて嬉しかった。参加者の中に東京農工大学で教えた渡辺宏一郎君の顔もあった。みんな元
気に頑張っているなあ。よしっ,私も負けないぞ!!

2006/03/29
 清水茂久君,木村豊彦君,数乗恒明君からメイルあり。数乗君にはびっくり!

2006/03/23 
ようやく春らしくなってきて嬉しい。山梨大学出身の皆さんが元気に活躍されていることは頼もしい限りであり,私も負
けないように(それは無理ですが)頑張っていきたい。梨大関係のこともおいおい書いていきたいけれども,まずは昨
年の8月に久しぶりにOBの皆さんと会った時のことを載せておきます。

*吉澤研究室出身の皆様
先日藤原君からのメイルが届いていることと思いますが,事情を含めて私からもご挨拶させていただきます(一部の
方には話が重複します)。2003年3月に東京農工大学を退官してから株式会社ミツトヨに常勤顧問として勤務いたし
ましたが,思うところあってこの3月に辞めました。現在は個人活動をしております。そこで山梨大学の頃の皆さんの
名簿の整理を始めていたところ吉川君(S45)から便りがありました。この4月に飯田市議会議員に当選したこと,また
同期生も60歳に近づきつつあるので会社などを辞めると連絡がつきにくくなるというものでした。それならば45年卒の
方だけでも集まろうと藤原君に幹事をお願いしました。社長に幹事をお願いするのは気が引けたのですが,アレンジ
や名簿つくりなど面倒なことをしてもらいました(いろいろと有難う!)。私自身は多くの方にご無沙汰しておりました
が,同期の方同士あるいはクラブ活動を通じて,皆さん結構連絡がとれていたようで,話はたちまちに進みました。
時間はなかったのですが,45年以外にも声をかけようとニコンを中心に何人かに連絡がいったかと思います。時間不
足や連絡先不明などで声をかけられなかった諸君にはお詫びします。
8月11日に本当に久しぶりに皆さんとお会いしました。全員が立派になっていて嬉しくなりました。とくに小俣君などと
は30年以上ぶりに会った訳です。でもみんな変わりませんね。私だけ歳をとった感じです。馬齢を重ねるとはこういう
ことをいうのかと実感しました。でも本当をいうと,私の研究室出身だったかなあと忘れてしまった方(ごめんなさい!
年賀状のやり取りはしていたのに。同期生にちゃんと確認してもらいました)や名簿から抜けていた方(出身高校や
お父様が某大学の材力の先生であったことまで覚えているのに)があったりで,まったく失礼しました。でもまあとに
かく嬉しかったです。またお会いしたいです。
私も今年で65歳となって,結局また山梨に回帰しています。あの翌日の金曜からも山中湖で過ごしていました。まだ
企業にも関係していて,毎週月火は名古屋で過ごしています。昨夜戻ってあわててこのメイルを書いています。
先日は菅谷先生から電話をいただきました。先生も80歳に近いご年齢かと思うのですが,お元気で模型つくりに励
んでいるそうです。みんな昔と変わりません。
書きたいことはことはいろいろとあるのですが,長くなりすぎるのでやめます。ホームページも復活させようと思ってい
るものの,苦手なのでまいっています。皆さん,元気で活躍ください。      (吉澤 徹 2005/08/17)



 藤原君が送ってくれた当日の写真です。宮本繁君から「永寿君の姿が見えない」とのメイルが来ました。
 彼は所用があって途中から参加したせいかもしれません。