以前ほどには海外へ出かけなくなってしまったけれども,たまに学会などの折に海外へ出かけるこ
とは大変に楽しい。昔に比べれば旅はずっと簡単にできるようになったし,学会では知り合った人 たちと再度会えることは嬉しい。
学会発表の合間にはのんびりと街を歩いたり買い物をしたりしてして過ごす。でもこの頃は年齢の
せいで組織委員会のメンバーになる場合が多く,司会役があるのであまり勝手に会場を抜け出すこ とはできない。私は名所旧跡を見るというよりは街中を歩くことの方が手軽にできて好きである。
■オプトメカトロニクス国際会議(ISOT 2014),米国シアトル(2014/11/5-7)に参加
この会議は15年以上も前にJ. KnopfやH. Cho に私も加わってスタートしたものである。とても楽しかったのだけれ
ども,途中でいささか不愉快なことがあって私はもう10年以上も出席していなかった。ところが,元助手であった大谷さ んが気を遣ってくれて,復帰のアレンジをしてくれて来た。正直なところ,私もリタイアすべき年齢であったが,今回の 開催場所がシアトルであること,ここのワシントン大学には大先輩でもある著名な破壊力学の研究者アルバート・S・ 小林先生がおられことなどがあって,なんとしてでも参加せねばならなくなった。90歳になられる小林先生について は別に記しておきたいことがあるので,ここではあまり触れない。この時期のシアトルは天候が不安定であるとかで, 朝は雨がひどく降り,しかも強風であったのに,10時頃には陽がさしたりする。昼になったので外に出たらまた雨であ る。会議が終って,夕方になったらどんよりとした曇り日である。そんな季節の中での会議であった。 講演される小林先生 J. トバイアソンさん(MEI)と小林先生
シアトルにはニューヨークに次ぐ人数の日本人が住んでいるそうである。ボーイング社以外にもマイクロソフト,アマゾ
ンがあり,スターバックスやノードストロームもここが発祥の地であるという。悪天候で市内を楽しくことは諦めていた のに,会議で知合ったワシントン大学博士課程の学生Y.ゴンが,偶然にも知人のところで修士号を取ってからこちらに 移ったとのことで,専門テーマも同じだったこともあって意気投合し,彼が車でマーケット辺りを案内してくれたのは有 難かった。世の中は狭いものである。また,ここのユニバーシティアベニューは大変に楽しい通りであって,世界最大 のフードコート(600メートルのフードコートという)であって飽きることがなかった。日本食レストランもあったが,Zenや サムライ,Udonはともかく,Itadakimasuという食堂には噴き出してしまった。
スタバ1号店かと思ったら本物は近くにあった。 古くからあるという大学通りの「侍」ラーメン店
昔の看板はこうであったらしい。満員であった。
■Photonics Asia 会議(中国北京)に参加(2014/10/9-11)
Photonics Asia 2014は10月9日8から11日にかけてBeijing International Convention Centerにて
開催された。これは隔年に開催されるSPIE/COS主催のシンポジウムで,私はOptical Metrology and Inspection for
Industrial Applications をK.Harding とともに委員長を務めてきた。しかし2012年の会議はあまり活発ではなかったこ とや個人的な関心の問題もあって,今回はSen Han (Shanghai University of Science and Technolpogy)および Song Zhang (Iowa State University) とともに委員長の役に就いた。結果的には大変にうまくいって盛況であった。と くに米国などから本国に呼び戻されたと思われる中国人研究者が積極的に活躍している様子が印象的であった。中 国勢の躍進振りには感銘を受けた。個人的には,上海理工大学はかつての上海機械学院の流れを引いており,上 海機械学院は東京農工大学の姉妹校であったところから軍工路にあったキャンパスを懐かしく思い出したりした。
Sen Han(左端し), Song Zhang(左から4人目), G. Pedrini,(前列右から5人目) らの姿が見える。
ただし,中国の発展とは裏腹に大気汚染がものすごくてこれには閉口せざるを得なかった。現地の新聞でも
こうした写真が掲載されていたのだから,はやく対策をとってほしいものである。
実は私もすっかりと歳をとってしまって,なんとも複雑な思いもした,劉広栄さんともお会いできて本当に嬉しかったけ
れども,公式に北京を訪れることができることは,もうないかもしれないかなあと思うとなんとなくこみあげる感情を抑 えることができなかった。
■SPIE DSS 会議に参加 (米国バルチモア,2014/05/06-08)
Dimensional Optical Metrology and Inspection for Practical Applications 会議はK. Harding (GEが中心となって
行われてきたが,BostonでのPhotonics East会議が消えてしまってSan Diego に移った。しかし,これも他の会議と の間でコンフリクトがあって,今年からはBaltimoreでのDSS会議に加わることとなって開催地を変更した。このDSS Defence and Securityには,今年からあらたにSensng Technology and Applications が加わったわけである。確か にDefence だけであっては日本人としては参加しにくい。いつからであったろうか,私もHarding とともに会議委員長 を務めることとなってしまっている。私にとっては はじめての土地であったが日本からは実に行きにくい。シカゴに出 て乗り継ぐこととなったが,時間帯も悪くて,しかもシカゴで5時間も待たされる状態でくたくたになってしまった。会議 自体はいつもながらであったが,今回は会議に手馴れた米国人が多くて,私の英語力では理解できないことばかり であってなんとも情けない状態であった。つらかったのは,この町が私にとってはあまり魅力がなかったことであっ て,観光を楽しむことができにくかった。見るべきポイントに乏しかったのである。ドラッグストアもCVSはあったが小さ くて品数が少ない。おまけにビールでも買いたかったのに売っているお店がない。「どこかでビールは売ってません か?」と訊いても「バーで飲んだら」といわれるだけで,ホテルでのんびりと飲むことができない。CVS以外にはようや くWalgreensをみつけはしたものの,ここも小さくてろくな品物がない。ましてやビールなどはない。まあ東海岸の町 であるからアルコール飲料が市販されていないのは仕方がないかもしれないが,それにしても切ない。2,3日してか らなんとかRite Aid があることを知り,ようやくにしてビールが買うことができたものの私にとっては手遅れであった。 私は決してアルコール依存症ではないけれども,いささか禁断症状に陥ってしまったようである。でもウォルターズ美
術館は大きくはなかったけれども楽しめた。もう一つの美術館であるバルチモア美術館も大きなものではなかった
が,ここのショップは楽しめた。ただし,ここへは行きにくい。しょうがないのでペンステイションまで無料のバスで行 き,ここからタクシーを拾った。小さな町だし見るべきところが乏しい。食べ物も海産物でエビやカニはあるものの,私 には生臭さすぎてあまり楽しいものではない。さて,来年以降はどうすべきなのであろうか。
インナーハーバー(海辺の町:船とエビやカニは楽しめる)
パワープラント(中の本屋さんに寄りたかったが時間不足)
左:ペンステイション(米国の鉄道駅は馬車時代の名残があって好きである)
右:ウォルターズ美術家(個人収集品が無料で公開されていて素晴らしい)
■シンガポールでのicOPEN 2013会議に参加(2013/05/26)
4月9日から11日にかけてシンガポールで開催されたicOPEN (International Conference on Optics in Precision
Engineering and Nanotechnology 2013)に出かけた。私はシンガポr-ルが好きである。とくに(率直にいうならば)私 どもの世代にとっては昭南島として刷り込まれてしまっているので複雑な思いはあるものの親近感が強い。今回も 大きな期待と楽しみをいだいていたのだけれども,残念なことに私のミスが重なってしまって不本意な旅となってしま った。とくにy旅程を決めるにあたってポカを重ねてしまって,同行した妻にも迷惑をかけてしまった。いつもなら会議 の合間をぬっての街歩きができたのだけれども,ミスが重なってしまって中途半端になって何のために来たのかが解 らない状態になってしまった。知らない土地ではなかったのだけれども,ここは開発の変化も激しいし,主催者側も い いところを見せようと張り切っての行事を組む。これに私がついていけなかった。しかもここには何人かの友人もいる ので,誰に会いたい,あそこに寄りたいとか思ったもののいずれもが不完全燃焼になってしまった。体調もなんとなく 優れなかったので,会議で私の発表も出来損ないであり,次世代の研究者の方たちの発表には圧倒される思いで あった。老人になったなあという自覚と自分のふがいなさに,ただただ惨めな思いでの旅であった。でも次回は改心 してうまくやります。
シンガポールは多民族国家でるから宗教も多様である。いろいろな寺院が街中で見られるが,いつも車の中からし
か見られないのが残念である。いつかゆっくりと滞在して,建物めぐりをしてみたいなあ。上の写真はチャイナタウン にあるSri Mariammman 寺院である。チャイナタウンはちょっとしたお土産を買うにはいいが,ちょっと飽きてしまっ た。 とくに食事は観光客相手にぼっているところが多いので,奥には入らずにむしろ駅の近くで食べたほうが安くて おいしいようだ。
アスンディ夫妻との写真である。彼はSPIE関係で古くから知っているが,最近は非常にアクティブに活躍していて立
派である。研究者の世代交代も著しいが,彼はもっとも成功している研究者の一人である。香港から移ってきて,シ ンガポールの中心人物として活躍している。言語の問題もあるけれども,シンガポールの科学技術政策は実に素晴 らしい。目を見張るのみである。
■北京でのPhotonics Asia 会議(2012年11月)
SPIE/COS主催のPhotonics Asia に "Optical Metrology and Inspection for Industrial Applications" を設けて
2回目の会議となった。かつては日本人が参画している会議がいくつかあったように思うけれども,中国での会議は
我々の考え方とは異なる点が多くて,今年は4つの会議に日本人がCochair として名を連ねているだけとなってい
る。前回の会議(2010)では,我々海外からの参加者にはランチが用意されていない,というかランチを取る場所さえ なかった。中国人専用であったことは参った。海外から参加の中国人も同じ目にあっていた。これには参り果てたの で,私は朝食の一部をバッグに入れて持参した。しかし,今回はランチが用意されていたので,GEのK.H. とも「今年 はランチが食べられたなあ」と大笑いした。会議は前回よりもやや低調気味であったし,全体的に「中国人の会議」で あった。日本人に限らず,シンガポールからの参加者も類似の感想を漏らしていた。もっとアジアらしい会議であれ ばいいと思いながらSPIE 事務局長にもそんな感想を伝えて,帰国後にはメイルで再度意見を送ったが,さてどうなる ことであろうか。
今回の会議は,着いた翌日の4日に大雪に見舞われてしまった。買い物などは着いた日に盟友の劉さんに車を出し
てもらってざっと済ませておいたので,この日は会議に備えての準備にあてた。それでも午後になってから散歩に出 たりしたが,軽装の私は靴の中まで雪が入り込むし,寒さと路面スリップに弱り果てた。北京では道路を横断するこ とは決死の覚悟が必要であるし,危うくフリーズするところであった。こうなると命がけの会議参加である。
北京大学学生による中国音楽演奏 会議場近くの鳥の巣夜景
今回の会議ではなんとなく熱気が乏しいように思われたが,久しぶりに何人かの友人にも会えた。オーストラリアか
ら参加していたXi先生とも久しぶりに会えたが,誘われて北京郵電大学に行ってみた。きわめて大規模な大学であ ったが,見学というよりはご馳走になりに行ったようなもにだった。私は中国酒はきついのであまり飲んだことがなか った。「中国ワインをやろうよ」というので,「これはスピリッツだな」と一瞬思ったけれども,行きがかり上トライするこ とになった。「白酒」というのでまいったが,結構おいしかった。なんというお酒か訊いたが,中国の簡易体なので読 めない。後で譚さんに尋ねたら「二鍋頭」と読むのだそうだ。北京では人気があるそうだが,安い割にはおいしい。後 日北京理工大学大学院生の劉さんとともに街を歩いたときにスーパーで一本買ってみた。ただ帰りにオリンピック公 園を散歩しようとしたら,入り口の検問所で取り上げられてしまった。危険物なのだそうだ。口惜しかったなあ。しょう がないからホテルに戻ってから近くのスパーでまた買った。また没収されるといけないので2本買っておいた。このス ーパーにはビールもいろいろと置かれていて便利だったが,ドイツ系ビールが多かった。
「紅星二鍋頭」(パイチュウであるから43% ドイツ系ビールが多い。青島だってもとはそうだ。
さて,次回は2014年10月にまたPhotonics Asia が予定されているというけれども,情報は乏しく遅く,しかも突然に
降ってくるので,果たして私にはまた対応できるのであろうか。私は中国が好きである。頑張ってほしいのだ。
■ホノルルへの墓参(2012年4月)
人間には気になりながらも長い間果たしていない責任のようなものがあるのかもしれない。私は本当に長い間罪
悪感にさいなまされている件がいくつかある。その一つが親族との付合いであって,とくにハワイにいる親戚筋との 関係には申し訳ないままの状態が続いていた。本質的には個人的な問題であるし,また話が長くなるから書かない けれども,事情あって祖父が(医者であった)ホノルルに移ってしまい)私の父方の家系は日本と米国とに分かれて しまっている。私の両親が存命中はよかったのだけれども,両親が他界し,またホノルルにいた叔父叔母もみな亡く なってしまうと,いつの間にか音信が途絶えてしまった。これはまずいとは思いながらも忙しい生活であったために, そのままになってきた。私も年齢を重ねるとともに,これではいけないという思いが強くなり,苦労してもっとも親しか った従妹の消息をたどり,なんとか連絡先を探し出した。ホノルルを訪ねるのはなんと40年以上振りである。私が大 学生活から離れたのをいい機会として,ようやくに祖父らへの墓参を計画した。従妹のシェ−ラがいろいろとアレンジ してくれたが,とにかく会ってもお互いが認識できないほどの状態であった。でも元気なので嬉しかった。私の家系は 何家族に分かれているのかは確認できなかったが,もっとも最年長の従姉は孫が八人いるというから,一体何人の
祖父や叔父叔母らが眠る本願寺(Hongwanji) 親族が会して(Tsukiji Restaurant)
親族がいるのであろうか。うか。さらにカリフォルニアなどに移った従弟もいる。みなはすでに三世,四世,五世の世代
となっているから,もう誰も日本語を解さない。私は非常に複雑な思いをいだきながらホノルル滞在を過ごした。 シェーラやフィル,本当に有難う。
■Laser Metrology (IMEKO) 会議に参加
(2011年9月10日〜18日,独 ブラウンシュバイク,ダルムシュタット)
最後にドイツに行ったのはいつだったろうか?アーヘンだったかもしれないから2003年頃だったのだろうか。
だからドイツの地理もすっかり忘れてしまって,どうやってブラウンシュバイクまで行くのがいいか迷ってしまった。結
局(あまりよくはなかったが)ハノーファーからのんびりと行くこととした。ライナー・トュッチュから誘われて組織委員に なっていたし,久しぶりに妻とライン川に沿って下ってみたかったからでもある。会議自体は当初の計画よりも小規 模になってしまったのでいささかプランでもたついた。でもまあこの街を楽しむことができた。短い会議だったので,終 ってから列車でユストさんのいるダルムシュタットに向かった。この街もすっかり変わってしまっていたが,多少は知っ ているので気は楽であった。前に妻とともにライン河沿いに列車で下ったときには夕方になってしまったし,天候も悪 くて楽しくなかったので,今回はユストさんにザンクトゴアまで車で送ってもらって,ここで昼食をとるなどのんびり過 ごしてから船に乗った。この辺りであればローレライの岩まで登るのが観光ルートなのかもしれないが,時間もなく私 には興味もないのでむしろこの付近をぶらつくほうがいい。お決まりのラインくだりだったが,妻は楽しんでいたので 嬉しかった。これも妻へのサービスとしてリューデスハイムで降りて,お決まりのコースを歩く。でもこの町は楽しいし きれいなので好きである。ここからフランクフルトで出てユストさんと待ち合わせて,彼が大好きな日本料理店「ひげ 松」で日本食を楽しむ。久しぶりであった。ダルムシュタットも変わった。でも楽しかった。また機会があったらこの街 を再訪したい。ユストさん,お世話になりました。有難う!
こんな看板がいい(ブラウンシュバイクにて) ライン川沿いの猫城がうまく撮れた
Dr. Just とビールを飲みながら(何年付き合っているかなあ) Prof. Tutschと(彼も偉くなったなあ)
■ICESS会議に参加(2011年4月18日〜21日,中国 南京)
International Conference on Computational & Experimental Engineering and Science) というなんともものすごいタイ
トルの会議に参加しないかと友人のFu-pen Chiang (Stony Brook University) から誘いがきた。何でもありというよう なすごい会議名には呆れたが,まあお付合いもあるので委員を引き受けた。ところがまいったことにはWebsite に書 いてあることがややこしくて,どうやって原稿を送るのかが理解できない。これは私だけではなかったようである。挙 句の果てに南京までの行き方も(以前に一度行ったことがあったが,この時は合肥から行ったのだった)よく解らない し,また東方航空の態度が良くない。ましてやホテルへの予約などさっぱり解らないのでいきなり予約もなしに行く羽 目になった。呆れたものです。当然ながらホテルのロビーで往生したけれども,偶々Song Zhang が来たので交渉し てもらってなんとかなった。ただ用意されているはずであった夕食には結局二人ともありつけず,会期中も夕食の場 所が突然変わるなどで慌てさせられた。でもまあ中国のことである。北京や上海よりは社会の仕組みが遅れてい て,10年前のままであると考えれば許すことができるのだ。そう悟った途端に楽しくなってきて会議も愉快になってく るのだからさすがに中国流である。後でまた書き足すけれども,取りあえず会議の夕食会で撮った写真を一枚載せ ておこう。
向かって左端がSong Zhang, 中央私の左にFu-pen Chiang, 右はQianKemao,右端にDong Chen
■シンガポールICOPEN 会議に参加(2011年3月21日〜26日)
昨年北京でのPhotonics Asia 会議の折にシンガポールのAnand Asundi から「ICOPEN 2011:
International Conference on Optics in Precision Engineering and Nanotechnology」を開催す るから参加してよ」と言われた。私はシンガポールが好きなのですぐその気になった。でも準備が きつくて二番煎じの内容での発表になってしまった。実は発表よりも大変だったのが航空券の手配 で,シンガポール航空で羽田から手軽に行けたはずなのに,これが真夜中に出発などというフライ トしかなくて,結局成田発にした。さらにまいったことは直前に地震があって成田エクスプレスは 運休となるわ,その他の空港までの列車も運行がまったく不明となってしまった。最後までバタバ タしたけれども,結局京急線のアクセス特急を利用することとした。そのために家を朝の4:45に出 て神奈川新町5:25の列車で成田に向かった。それでも深夜便を利用した人たちは「もう懲り懲り」 といっていたので,まあよかったのだろう。2年ほどの間にシンガポールはさらに発展していて,海 辺のマーライオン公園から見た光景は一変していた。
しかもマーライオンはビエンナーレの会期中は日本人芸術家 Tatzu Nishi によってホテルと化して
いた。水を吹き出すことなくホテルの一室に収まったマーライオンは妙なものである。
マーライオンホテルの一室 Dr. Xu とアジア大陸最南端の地にて
妻も一緒であったので,ちょっと行きにくいセントーサには会議の前日にSIMTECHのDr. Jian Xu に
連れて行ってもらった。この日は終日雨であったので,彼の好意には感謝した。妻に巨大マーライ オンを見せて,またアジア大陸最南端の地を踏ませたかったからである。
■Photonics Asia 会議に参加(2010年10月18日〜20日)
私は中国が好きである,というか子供の頃に(誤解しないでいただきたいが)アジア各地のこと
が脳に刷り込まれてしまっている。2000年頃までは姉妹校関係もあって北京や上海に毎年出かけて いた。しかし,以後はしばらくはチャンスが無かったが,一昨年OIT会議で久しぶりに上海に出かけ て,またついでに北京まで足を伸ばしてすっかりと変革した現在の中国を垣間見た。SPIEにおける 「三次元計測グループ」である我々は2010年には米国以外で会議を開催することとなっていたので 思い切ってPhotonics Asia に加わることとした。ところが予定していたK. HardingやP. Huang ら との会議以外にもう一つでも委員長をする破目となってしまった。昨年のOITグループにも巻き込ま れたわけである。正直なところこちらは専門外であるし,実質的には準備はすべてひとりで取り仕 切ったが,会議ではJesseと天津から参加したHao Zhangが司会を担当してくれたのでほっとした。 Haoとは昨年知り合った。まだ若いが好漢である。
バンケットにて農工大関係者と(あえて名前は記さず) K. Harding (GE) との議論
■米国ストーニーブルックに滞在(2010年夏)
9月に入ってすぐに米国ロングアイランドにあるニューヨーク州立大学スト−ニーブルック校に向
い,客員教授として 9月末まで2ヶ月の滞在をしました。日本では異常なほどに暑い夏だったそう ですが,ストーニーブルックは涼しい夏 で,快適に過ごすことができました。戻って荷物の整理 をする間もなく,10月18日より北京で開催された国際会議 Photonics Asia に参加して,ようや く戻ってほっとしました。あれこれと考えることが多かった今年の夏です。
大学の正門
現在機械工学科の主任教授であるFu-Pen Chiang と初めて会ったのは1978年であるからお互いに
信じられない程に昔のことであった。その後の私たちは似たような分野に身をおきながらも私が Experimental Mechanics からは
やや離れた方向に向かったことや,彼はとくにPhoto-mechanics と呼ぶテーマで活躍を続けたこと
などもあって必ずしも親しいという間柄ではなかった。しかしお互いに年齢を重ねたせいか,また 親しさが増してきた。そうした背景もあって,三度目の(いや四度目かな?)訪問となる今度はや や長い滞在をすることとなった。夏季であったために教職員や学生の姿が少なかったことは寂しか ったが,少しのんびりさせてもらった。学内の様子はまた別に書くこととして,ここでは美しい街 であるStony Brook で撮った写真から2枚を載せることとしよう。ニューヨークというと多くの日本 人はごたがたしたNY City を思い浮かべがちであるが,NY州は大変に広大であって光学や写真で知 られるロチェスターまでもNY州に属している。ということはナイアガラの滝の辺りまでがNY州であ る。
Setauket の石橋 Chiang 邸近くの灯台(1868年の文字が読める)
■上海・北京への旅−OIT'09 会議(2009/10)
旧知であった魏平さんから電話がかかってきて,上海で開催される "Optical Instrumentation
and Technology 2009" という会議で「一緒に委員長になって欲しい」という。彼は北京理工大学 (BIT: Beijing Institute of Technology)を卒業してから東京大学大学院に進み,その後は日本 に留まって会社を立ち上げてコンサルティングなどを行っていた。18年間も日本にいながら,呼 び戻されて母校の光電学院院長になっている。引き受けはしたが,中国流の会議運営であるからあ る程度の覚悟は決めた。問題は情報不足であり,今回も会議の一週間前になっても会議プログラム やホテル情報が送られてこない。しょうがないから私流に対応はしたものの,不安だったし(正直 なところ)金銭的にも無駄をしてしまった。まあ,これは言うまい。結局のところ,私が担当する 会議 "Optoelectronic Imaging and Processing Technology" には180編の応募があった。これを チェックすることはアブストラクトレベルであるとはいえ結構大変であった。結局のところ,不備 による不受理やキャンセルなどによりおよそ150編を採択したが,そのうちでオーラル発表が約50 件,ポスターが100件となった。プログラム委員には多くの方の名前があったけれども,専門分野が 解らないので,協力いただけたのは志村先生(東京大学)と顧若偉さん(株式会社オプトン)に中 国人1名だけであったのは辛かった。でもセクレタリ役の王玲雪さんが頑張ってくれたのは嬉しかっ たなあ。
。
会場(上海光大会展示中心) バンケットにて
会議ではカナダから駆けつけてくれた Jesse Zheng とともに司会役を担った。若い方からの発表が多かったが,みん
な頑張っていてよかった。
最後のセッションに残っていた人々(前列中央にJesse Zheng, 右端にスロベニアから参加の
D. Mongus,その隣は東大から戻ったばかりのP. Wang,残念だが私はこの写真の撮影者)
会議は22日で終ったので,翌23日はPeisen Huang (Stony Brook Univ.) に招かれて上海湖通大学の新しいキャン
パスに行った。ここにはミシガン大学との共同研究施設があり,キャンパスの広大さと建物のすばらしさに眼を見張 った。ここではセミナーをやろうということになっていて,約1時間ほどの講演を行った。
23日には空路で北京に向かい,劉広栄さんの出迎えを受けた。さらには連絡をしてもらって副校長だったYu Xin 教
授とも会うことができて嬉しかった。おまけにあの頃は学生であった陳曙とまで,豪勢な昼食をご馳走になった。
初めて会ったのが1987年だというから,私は1985年ごろから北京に行っていることとなる。懐かしいわけである。
姉妹校であった関係もあって,北京理工大学には知り合いが多くいて本当に懐かしい。
左から劉さん,魏平さん,陳曙さん
北京理工大学にて
今回の上海と北京への旅でも多くの経験をした。最も印象的であったことは上海の地下鉄で席を譲られたことであ
る。私は国内でも電車やバスで席を譲られたことはない。であるから,2時間ほどの余裕ができたので慌てて南京路 まで散歩に行った帰りの地下鉄1号線で女性(20代というほどの若い女性ではない)から席を譲られた時にはびっくり した。一瞬誰に声をかけているのかと思ったほどであるが,私にだと知って慌てて礼を言って座らせてもらった。やは り老人に見えたのであろう。また南京路から1本だけ北にある天津路を歩いていたら(この通りにはドアノブなどの金 物屋が多い),カメラを構えようとしたところで道を訪ねられた(多分?)。まだ若いきちんとした服装の男性からであっ た。米国などでは,他民族国家であるから,やたらに道を尋ねられるが,まさか中国でこうした経験をするとは思わな かった。中国語で「我不明白」と答えることしかできなかったが相手もすぐに事情を察してくれたようだった。
書きたいことはいろいろとあるが,ありすぎて書ききれないのでとりあえずはここで止めることとしよう。
最後に行ったのは上海が1998年,北京が2002年である。でも10回以上は行っているなあ。
■SPIE Optics&Photonics 2009 (San Diego)
いつもながらのコンベンションセンターです ガスランプ通りです
■さらばボストン−SPIE Optics East 会議の旅 (2007/09)
SPIE Optics East はずっとボストンとその周辺で開催されてきた。Photonics Westほどには大きな会議ではなかっ
たけれども,街の雰囲気とともに私は大好きであった。ところが会議のメイントピックスが(Photonics Westの半導体 のようには) 鮮明ではなかったこと,また東海岸側のホテル代や会場費の高騰が著しいしいということから 2007年 限りで中止となってしまった。会議の運営の中心となっている人々の考え方が適切ではなかったようにも個人的に は思われる。私が関係する会議 "Two- and Three-Dimensional Methods for Inspection and Metrology" は来年 からはサンディエゴに移ろうということとなった。 ちょっと寂しかったので, あちこちと街の中を歩いてみたが,今年は 妻が一緒でなかったためもあってか,なおさら寂しかった。さらばボストン!
ユニオンオイスターハウスの看板が懐かしいなあ。
■OSA会議(2006/10 ロチェスター)の旅
2006年には海外渡航は一回だけであった。その折の覚え書を精密工学会メカノフォトにクス専門委員会の皆様に
送ったので,ここに転載しておこう。
*OSA Topical Meeting: Optical Fabrication & Testing ( Rochester, Oct.9-11) 雑感
この会議は1990年以来,隔年で開催されてきたという長い歴史を持っているけれども,私自身はSPIE に近い立場
であったこともあって,これまで参加したことがなかった。今回は高辻さんからのお話もあってはじめての参加となっ た。委員長はUlf Griesmann(NIST)であり,高辻さんと同じような平面度計測などの研究をしている。委員として名を 連ねさせていただいたので,招待講演者を決めようということとなった時点で,私からは北川,大谷のお二人に外 国人を含めて数名の候補を挙げた。どういう基準で決めたか不明であるが,「複屈折は大切なのにちょっと見過ご していた」というコメントがGriesmannからあった。結果としては日本からは先のお二人以外に,閻紀旺(東北大), 松本勝(キヤノン),山村和也(阪大)の三名の方が招待講演者となっていた。
実はこの会議の前週にはBostonでSPIE Optics East が開催されており,とくに北川さんには計3件の講演をこなし
ていただくこととなり,なんとも有難く,また恐縮した気持ちであった。しかしいずれも巧みにこなされておられたのに は感嘆するのみであった。
ジョージ・イーストマン ハウス(私は展示物よりはここの庭が好きである)
怠け者の私はろくに,というか,まったく準備せず現地に着いたが,初日の朝に会場に入って後悔する羽目になっ
た。要するにSPIE会議との対比であるが,出席者数・出席者の顔ぶれ(知っている顔と名前があるか不安であった が)に仰天した。Stahlなどの NASAグループ,いまや大物になったJacobs (U. Rochester), Kuechel (Zygo),
Osten (U. Stuttgrt)のグループ,Greivenkamp (U. Arizona), Hocken(U. North Caroliina)のグループなどが参加し
ていた。Hockenはミツトヨでは神様扱いであろうし,Ostenの代理のPrussのすばらしい英語でのプレゼンには参っ た。SPIEではいつもながら非ネイティブな人々による「Scientist's English」がまかり通っていて,気が楽であった が,ここでは米国人が多いせいもあり,英語のレベルが桁違いである。加工分野のテーマでは,私には聞き取れな い,理解できないことばかりであり,さすがに緊張せざるを得なかった。会期中に次回会議に関するLuncheon meetingがあり,私も出席した。Griesmannはなかなかに記憶力があり,出席した20数名を(覚え違いがないよう に,と断りながら)一人ずつ名前や所属などを紹介した。初めてであった私などはどうなることかと思ったが,きちん と紹介してくれたし,中国からの委員として参加していたYin Ling(天津大学)のこともすらすらと紹介していた。この Yinは態度も服装も話す英語からも,中国人とは思われなかった。どこの国の女性かと思っていたら,発表になって はじめて天津から来たと判った。内容が歯科技工関するCAD/CAMという,ちょっと場違いなテーマであったが,質 問は多かった。私にも興味ある内容であったが質問は時間切れでできなかったので後からつかめてみた。驚いた ことには返事は日本語であって,熊本大学に留学していたそうであった。後から知ったのだが,米国やシンガポー ルの大学でのVisiting professorとしての経歴もある。どうりで中国人らしくないわけである。また会議には,昨年亡 くなったレンズ設計の「Frank Cooke を偲んで」というセッションもあったが,大げさなことをせずに,さりげなく個人を 讃えるような,なかなかにうまい構成となっていて,会議のあり方としておおいに参考になった。SPIEもそうである が,会員間の連帯感が強く,お互いに引き立てあっているなあという雰囲気が感じられた。このOF&T会議は今回 はOSA Annual meeting と同時開催のTopical meeting であったが,あまり日本人の姿がないことは(失礼ながら) むしろ爽快であって,私としては楽しむことができた。これは閻紀旺先生が「新鮮な経験であった」とメイルを下さっ たことにも通じる。
会議の最終日の昼には,OSAスタッフも出席して,次の2008年会議に関しての議論があり,アジアを含めての開
催場所の検討や,他のグループと共催すべきかといった議論が長く続いた。SPIEのことも話題となり,「ちょうどス パイから代表が来ているし」といった話になったので,私はてっきりSPIEのスタッフがいるのかと思ったが,これは冗 談で,スイスでのSPIE会議で委員長を務めた某をそう呼んだことに気づかず,恥をかいてしまった。SPIEが「スパイ」 と呼ばれることは聞き知っていたが,実際にどのような場でそう呼ばれるのかは知らなかったので,いい経験であっ た。ただ私は次のセッションでの司会役が当たっていたので途中で退席せざるを得なかった。このためにどこまで 話が進んだかは十分には把握していない。
日本人が少なかったといっても土井琢磨さん(産総研)がポスターでの発表をされていたし,土肥寿秀さん
(OptiWorks)がQEDの振りをして?参加していたりした。最終日夕方のOSA 90周年記念の会員パーティーでは東 海大学・若木,渋谷の両先生と久しぶりにお目にかかることができた。日本にも知り合いが多いChipman (U. Arizona) も得意の?日本語で元気に動き回っていた。「日本人はあまりいないよ」と言ったら,「あっちにいる女性 二人は日本人だ。聞いてきてよ」という。違うように思えたが,近寄って「どこから?」と尋ねて聞いてみたら,なんと 彼の言うことが正しくて,二人は東海大学の修士の学生であった。しかも若木先生の学生である。喜んだChipman は一緒の写真を撮ってくれとデジカメを押し付けてきたが,その米国製デジ9カメの液晶の応答の遅さといったら話 にならない。数秒かからないと画面が切替わらないのである。こんなものは日本であったら誰も買わないであろう。 記念パーティーといえば,みんながグラス片手に談笑する間をうろうろしている年輩者がいた。あれっ,また来たな あと思ってよく見たら,かの有名なEmil Wolfである。日本であればサインを求めて行列ができるところであろうが, ここでは皆さん「敬して遠避く」というか,誰も声を掛けようとしない。私も敬して遠避けさせてもらったが・・・・。
またこのパーティーの冒頭ではOSAから簡単な挨拶があり,それとともに「Happy Birthday」が歌われた。この人物
が誰であったかは知らないが,ラフな服装で歌ったテノールの声には圧倒された。正統派クラシックの歌声など生 で聴いたことがない私は人間とも思えない声の質と声量にただただ圧倒された。気になったので翌朝になってから Siegman (Stanford U., レーザ工学)に尋ねてみたら,OSA事務局長だったか会長が音楽が好きで,その関係で呼 んだのだろうとのことであった。誰だかは知らないという。「会員なのだろうか」と聞いてみたら,"Could be"という返 事であった。
今回の2週間の旅に関しては,あまりにも多くのアクシデントがあり,大変に緊張を強いられた。その都度なんとか
切り抜けられたが,文字通り"Exhausted"というのが正直なところである。実はRochester には30年前という大昔 に一度行ったきりであって,そのときに妻への土産に買った宝石箱は(現在も中身は空であるが)今でも残ってい る。あのころにマーケットというか市場があった辺りが,現在のRiverside なのであろうが,周辺のビルの竣工年月 からみると,辺りは90年代にすっかりと変容したようである。新井先生からは「何もないですよ」と言われていたけれ ども,私はその土地の風土と人間が好きなので私なりに大いに楽しめた。ただ動き回るのはPublic
transportation でのみと決めているので,ここでも頼りは自分の足とバスだけである。これもそれなりに面白い。家
の中を覗くことも好きなので,会議の前日にSuzan Anthonyという女性人権論者が住んでいたというビクトリアハウ スに行った。ただ着いたばかりで行き方が解らないので,会場近くの路上にあったInformation center の出店?で 聞いたら,そこにいた年輩者が(おそらくはボランティアであろうが)実に親切で(土曜日であったためにバスの本数 もきわめて少なかったこともあり)解りやすく教えてくれた。これには感激して翌日礼を言いに行ったが,交代制のた めか別人が担当していた。残念に思っていたら最後の日の夕方にホテルのロビーで観光案内のパンフレットを並べ 替えている彼に出会った。ほっとして礼を言うと,彼も覚えていて喜んでくれた。本当に人柄がよい人物であった。こ のSuzan Anthony Houseは内部の間取りも勉強になったが,あまり日本人は訪ねてこないらしいことは,来訪者名 簿からもうかがえた。女性参政権実現のために戦ったという人物であるから,あまり日本人は興味がないのであろ う。日本から来たというと驚いてどうしてかと理由を問われてちょっと困った。こうした家の見学では時間を決めて の,あるいは一定の人数が集まってからのツアとなるのが普通だが,話しているうちにPrivate tour にしようという ことになって,(一緒に待っていた娘連れの男を残して)案内役を買って出てくれた女性がいたのはうれしかった。と くにその英語はきちんとしたものであって,私にもかなり理解ができた。もっとも終わってから,「ゆっくりと話したつも りだけど,どのくらい理解できたか」とチェックはされたが・・・。「ミセス・イーストマンのようにはお金持ちではなかっ た」というが,ドネーションは受けないというので,お礼としてコーヒーカップやTシャツをもとめてお礼とした。ここを出 て辺りの家々を眺めながらぶらついて通りに戻ったら,リカーショップが道の向うにある。この辺りはビールが買いに くいので困っていたので行ってみたが,なんと「30分後に戻る」という札が下がっていたのにはがっかりした。でもと にかくリカーショップはあるのだ。
スーザン・アンソニー ハウス(内部が楽しい)
宿に戻ってから(コンベンションセンターの近くの小さな駄菓子屋みたいな店に入ったら,コーラはあってもやっぱりビ
ールは置いてない。店のおにいちゃんに「ビールはないの」と訊いたら,「ライセンスが大変なんだ。でもこの先には売 っているところがあって,探せると思うよ。あまり勧めないけどねえ」という。「4分ほど先だ」というので早速歩き出し たが,なかなか見つからない。それに途中には汚い格好の連中がたむろしていて,いささか勇気が要った。それでも どうにか駐車場の奥に,なんとも怪しげな新聞雑誌店があるので思い切って入ってみた。アメリカの映画に出てくるよ うな,ちょっとスラム街にあるような雑貨屋である。ネクタイをした人や白い色の人はまったくいない。さすがに一瞬は 躊躇したが,「ビールがある」に負けて店の奥まで入ってみたら,たしかにバドやハイネケンがあったのには嬉しくな った。ダース買いして,ついでにサラダも買って帰った。このサラダを買うときは味付けを聞かれたが,よく聞き取れな かったので「スパイシーでいい」と言ったら,本当にスパイシーなのには往生した。しょうがないからビールをたっぷり 飲んで味を薄めた。この店は大谷さんにも教えたが,行ったかなあ。私はビールに引かれて,その後も何度か行って みた。ネクタイは外して。二度ほど行って,ガラスケースの中のサラダ弁当を売っている黒いむっつり顔の女性に, 「あまり辛くしないで」とか言っているうちに,笑顔を見せてくれるようになり,何度目かの時には「特別につくってあげ る」と言ってくれた。調子にのって,チキンだ,ターキーだと注文をつけられるようになったところで帰国の日となってし まった。おいしかったし,安かった。旅先では一人でレストランでの食事は寂しかったからとてもよかったのになあ。
ここは寒いせいか,あるいは治安上の問題か,大きなビルの間は二階がSky Walkという廊下でつながっていて,
Midtownというモールにも行ける。ここに行けば一通りの店はあるし,骨董屋や1ドルショプまであるのは嬉しかった。 ただ,夕方の5時には閉まってしまうのが情けなかったが・・・。街の中での観光先には科学博物館やイーストマンハ ウスもある。イーストマンハウスの見事な中庭を見たかったので,ここへもバスで行こうとしたが始発のバス乗り場が 解らない。困っていると親切にも「どうしたのか?」と」言ってくれる人もいたが,結局解らない。まあいいや,West St. とあるから,この通りに沿って歩いて行けばどこかでバス停が見つかるだろう。覚悟を決めて歩いたが,20分ほど歩 いてもバス停がない。ははあ,これとは違う通りをバスは走っているのだなと思ったが,どうにもならない。しかし歩き 回ることにはいいこともあるもので,偶然にも古本屋の前に出た。ふとみたら窓のなかにG.ホワイトの「セルボーンの 博物誌」がある。誰だかによる写真も入っているとある。女主人に見せてもらったら,たったの8ドルである。1903年 発行というこの本は,日本であったらとても3000円以下では買えないであろう。早速に買ってみた。ここで道を尋ね て,なんとかイーストマンハウスへたどり着いたが,昔の記憶はまったく甦らなかった。これといって何もない街なが ら,うろうろと歩くと結構楽しめるものである。
この店で 「セルボーンの博物誌」をもとめた
さて次回のOF&T 会議であるが,プラン会議では2008年にGriesmannとJacobsをChairs として開催することまでは
決まったそうである。場所は多分西海岸になるであろうとのことであった。日本からの委員として数名の方の名をあ げさせていただいた。関心ある皆様が積極的に参加されることをお勧めしたい。 |